2009年4月 2日 (木)

エイプリル・フールと『バカはなおせる』のことなど・後

 同書によれば、恋することによって、大脳基底核という所と腹側被蓋野(A10神経核)という所が働くそうなのだが、この腹側被蓋野が働くと分泌されるドーパミンという物質が、前頭前野、海馬、運動野、運動連合野などの働きも良くする――イコール、脳を良くするいうことらしい。
 しかも、愛を感じていないよりは、感じているほうが脳にいい――恋の相手は架空の人物であっても一向に構わない訳である。要は、脳を良くする、脳や精神を活発に活動させる、その為の手段として、何に対してであれ「恋すること」が何より有効である、ということである。これほど力強い励ましがあるだろうか。
 九郎兄さまであろうが、武蔵であろうが、ドン・ディエゴであろうが、Dであろうが、ロビンであろうが、ムウさまであろうが……とにかく、恋すれば良いのである。彼らとコミュニケーションをとる為の手段としての、書籍やDVDの購入という行動も、関連する映像作品や舞台などの鑑賞も、同好の士らと共にその魅力を語り合うことも、どれを取っても「脳に良いこと」であるなら、最早、何を遠慮することやある!! である。(ここまで拡大解釈する奴もそうはおるまいか……いや、これは決して、曲解でも誤解でもない筈である)
 昔、九郎兄さまへの思いを、
   恋すれど心むなしや我が君はことだまの野におはしますれば
 ――という腰折れに詠んだことがあるが、こうなって来ると、最早「心むなしや」どころではない。活字の中の主人公であろうが、銀幕の中の俳優であろうが、歴史の中の英雄であろうが、とにかく「夢中で恋すれば」良いのである。
 これは――福音以外の何ものでもないではないか。
   脳、刺激せよ
   恋せよ人よ
   恋こそ生くる
   力の源泉
 もしかしたら、韓流の純愛ドラマに夢中なおばさま方が、素晴らしく活動的で行動的で活力に溢れて輝いて見えるのは、その最も顕著な例かも知れない。
 無論……現実の世界に、そのような対象が存在するのであれば、それ以上のことはないのだけれども……。
(「ぼくは、いつでもクレア☆に恋してるから、大丈夫だも~ん☆」ひつじ談――勝手に永遠にのろけとれ!!)

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2009年4月 1日 (水)

エイプリル・フールと『バカはなおせる』のことなど・前

 エイプリル・フールである。
 今年も、面白いeカードがあれば友人知人らに送ろうと、楽天グリーティングで探してみたのだが……余りピンと来る新作を見つけることが出来なかったので、例の「四月一日抗議デモひつじ」に再登場願うことにした。
「ひとをだますのはよくない!」「エイプリルフールはんたーい!」と書かれたプラカードを手に、必死の訴えをしているひつじ之図――それに、こんなメッセージを添えてみた。
「うちの☆沢が、恋わずらいで激痩せなんて、あり得な~い!!」
 誰がそんな厚かましいことを言うかいっ!! 放っとけっ!! と、ひつじに拳を振り上げてみても……う~ん、何とも言えず、虚しいものが……。(しかし、幾つかの切実な問題もあるので、目方はもうちょっと落としたいものである)

 所で、エイプリル・フールと言えば四月馬鹿、馬鹿と言えば――三年ほど前に読んだ本に、非常に面白いものがあった。
 久保田競氏の『バカはなおせる:脳を鍛える習慣、悪くする習慣』(アスキー/刊)で、これは、何と言うか……私にとっては一種の福音書であった。
 著者は、各方面で話題になっている川嶋隆太教授や泰羅雅登教授らの師に当たる方で、教え子二人の論にも少々苦言を呈しておられたりしている点なども楽しいのであるが、中でも、何より心強く感じたのは、次のような記述である。

   「Journal of Neurophysiology」誌の二〇〇五年六月号では、「恋愛は脳に良い」
   という報告もなされました。(中略)恋愛の対象は、身近な人なら会話ができてベ
   ストでしょうが、スマップやモーニング娘。などのアイドルや、アニメやゲームの
   キャラクターなどでもいいとわたしは思います。愛を感じていないよりは、感じて
   いるほうが脳にいいのです。(p.57より引用)

    いっぽう、独身で恋愛を自由にたくさんしているというのは、脳にはとても良い
   です。好きな人と会話をするのはもちろん、インターネットや電子メールを使って、
   言葉をかわすだけでも構いません。(中略)恋愛対象はアイドルや、漫画やアニメ
   のキャラクターでもいいのですが(愛がない場合よりも、脳はより発達します)、
   コミュニケーションがとれる分、身近な人間相手のほうがいいでしょう。それがダ
   メなら、相手はペットでもけっこうです。(p.163-164より引用)

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2008年10月29日 (水)

『とんがとぴんがのぷれぜんと』ならぬ『とんがとぴんがのプレゼント』

 以前、クリスマスが近づくと思い出す一番古い記憶の中の絵本として、西内みなみさんの文、司修さんの絵による『とんがとぴんがのぷれぜんと』について、この雑記に書いたことがある。題名を全く違う形で記憶していたり(ずっと『はりねずみのおくりもの』という題名であったと思い込んでいた……)、初めて手にした年を一年ずれて認識していたり(4歳の時の記憶だと信じ込んでいたら、実際には5歳の時であった……)と、書いた後になってから、さんざんな記憶間違いが発覚したのであるが……。
 因みに、当時の「こどものとも」に関しては、『だるまちゃんとかみなりちゃん』(かこさとし/作・絵)が知る人ぞ知るロングセラーでシリーズも続いているし、『ぞうくんのさんぽ』(なかのひろたか/作・絵)、『ゆうちゃんのみきさーしゃ』(村上祐子/作,片山健/絵)、『ごろはちだいみょうじん』(中川正文/作,梶山俊夫/絵)、などは今も入手可能である。『ぞうくんのさんぽ』に至っては、『ぞうくんのあめふりさんぽ』という続編まで出ている。残念ながら入手出来なかったが、『たいへんたいへん』(イギリス昔話)、『うさぎのいえ』(ロシア民話)、『はるかぜとぷう』(小野かおる/作・絵)、などは10年ほど前に、『二ほんのかきのき』(熊谷元一/作・絵)は80年代に、復刊されていたようである。
 さて、昨日28日、福音館書店から『とんがとぴんがのプレゼント』が発行された。文は西内ミナミさん(お名前の表記が片仮名に変わっているようである)なのだが、絵がスズキコージさんなので、残念ながら、全く純粋な意味での復刊という訳ではない。
 これが、文章が中心となる児童文学の類であれば――例えば、庄野先生の『星の牧場』の挿絵が、中谷千代子さんのものと長新太さんのものと二種類あっても、それぞれに合っていて違和感なく受け入れることが出来たのだが……。
 絵本の場合は、作品全体の印象ががらりと変わってしまう恐れもある。昔話絵本などでも――例えば同じ『赤ずきん』でも、有名なガルドンの絵によるものを始め、最近の大竹茂夫さんやいもとようこさんの絵によるものまで(無論、文も違う訳であるが)、矢張り、印象は変わって来る。創作絵本であれば、その影響は更に顕著なものになりそうである。
 かくして、発行されたばかりの『とんがとぴんがのプレゼント』を買うか否か……迷い続けている私である。

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2008年8月17日 (日)

『美髪再生』(塩田鹿納命/著)を読んで

  久々に「感激の本」に出会った。塩田鹿納命(かなめ)氏の『美髪再生』(メタモル出版刊)である。
  一言で言えば、化学的に製造された染毛剤の危険性と、天然の植物染料ヘンナ(ヘナ)等によるトリートメントや毛染めについて書かれた本なのであるが、著者がプロの美容師さんであるという点が、何より画期的である。以前、行きつけの美容室で、洗髪担当の若い美容師さんと、経皮吸収された合成シャンプーの成分が子宮に蓄積される話などで盛り上がった話を書いたが、あの時と同様の非常に強い感激を覚えた。
 昔から、美容師さんイコール化粧品業界側の人間――的な、警戒心と言うか不信感に似た思いを抱いて来た私には、その“美容師”である塩田氏自らが、美容業界の常識に疑問を覚え、研究の末、安全性の高いナチュラル・ヘンナを基本に、青系統と黄系統の植物染料を重ねて染めて行き、次第に美しい栗色に変化させる……という方法を考案・紹介しておられることが、そもそも素晴らしく思われる。化学染毛剤等による健康や環境への深刻な影響についてなど、更にもう一歩踏み込んで書いて欲しかったように思える部分もあったが、それでも、美容師という立場にある人が、よくぞ……と、思わず拍手を送りたくなった。
 私の中では、あの日消連の『あぶない化粧品』以来の快挙とも呼ぶべき本である。何となれば、この私が、生まれて初めて「ヘンナでなら、髪を染めてみても良いかも?」と、思い始めているのであるから……。
 所で、ヘンナ(ヘナ)による毛染めについては、先に佐光紀子氏の著書『佐光さんちのなるほどエコ生活』(リヨン社刊)で読んで知っていたが、氏の掛かりつけの美容師さんは「染めるなら、思ったとおりの色が出なくちゃね」と、美容師としての信条からヘナを使用しない主義なので、仕方なく自宅でヘナを使って髪を染めておられる……と、いうことであった。
 もしも、佐光氏の担当美容師が塩田氏であったならば……。
 私の勝手な希望であるのだが、この両氏の会見が実現すれば、きっと素晴らしいものになるだろう。対談であるとか、或いは佐光氏が塩田氏の美容院で施術体験されるレポートなど、是非とも企画して戴きたいものである。
  話は少し逸れたが、これは、どなたにも是非ご一読をお勧めしたい、文字通り「目から鱗」の一冊である。

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2008年2月23日 (土)

『KY式日本語:ローマ字略語がなぜ流行るのか』を読んで

 以前、知人から「最近よく使われている言葉なので、覚えておいて損はないと思います」と、“KY”という新語を教えて貰った。これは「空気が読めない」という意味で、その頭文字をとったものなのだと言う。面白いなとは感じたのだが、同時に「イニシャルが同じ人が聞いたら、良い気分はしないかも……」とも思った。それから程なく、館のS氏が奥様から「KYどころかKSや」と言われた……と聞いて、更に引っ掛かるものを感じてしまった。奥様は「空気吸うな」の略として使われたそうなのだが、これは私にとっては非常に大切なイニシャルでもあるので、余計に「ちょっと待って!!」という思いが湧いたのである。
 そんなこんなで多少は興味を持っていたこともあって、少し前に新聞で紹介されていた『KY式日本語:ローマ字略語がなぜ流行るのか』(北原保雄/編著,大修館書店/刊)を読んでみた。北原氏によるKY語理解の為の解説や、様々なKY語の単語集などから成る新書サイズの本である。
 KY式日本語(KY語)の定義は「日本語をローマ字表記にした時に“文節(句)”“語”“語を構成する部分”などの最初に来るローマ字で表わした略語」ということだそうで、遠回しに表現出来る、周囲から際立たせる、仲間意識を高める、言葉遊びが楽しめる、等の表現効果を持つ反面、文節末や文末を明確に表わせない、大体の所しか伝わらない、意味がぼかされる分「言葉の暴力」に対して鈍感になって行きがち……等の問題も孕んでおり、その功罪を明確にすることも、この本の目的とする所であるらしい。
 一読して感じたのは「難しい」「余り好きになれそうにない」といった思いであった。残念ながら、言葉遊びとして面白いと感じた語例は一つか二つくらいで、仮にごく狭い仲間内だけで使うとしても、その中でさえ誤解を生じる危険性を孕むのではないかと案じられそうなものが大半であった。
 その存在や用例は、確かに知っていて損はないと思う。しかし、こうしたKY式日本語を、私が自分の話す言葉の中に積極的に取り入れたいかどうかと言えば……まず、思わない。それぞれの意味を正しく覚えて使いこなせる自信は全くないし、下手に使って万が一の「誤解」を生むことが何よりも恐い。
 結局は――その存在を知った当初に感じた印象と全く同じものを、その理解を深める目的で編まれたこの本を読んで、より痛切に感じ取ってしまったようである。

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2008年1月30日 (水)

『おとなの叱り方』を読んで

 和装絡みの文の続きを書く心づもりをしていたのだが、今朝から読み始めた和田アキ子さんの『おとなの叱り方(PHP新書 500)』(PHP研究所/刊)が余りに面白くて一気に読み終えてしまったので、その勢いで紹介文を書くことにする。
 今年初めて買った本である。年が明けて暫くした頃、産経新聞に掲載された記事を見て興味を覚え、翌日には出入りの書店さんに発注して、発売日前の15日には無事に入手していたのだが、その後、結構疲れることが多かったり体調が良くなかったりして車内で紐解く気力がなかなか湧かず、今日まで通勤鞄に入れたままにしてしまっていた。今朝、珍しく座れたお蔭で、やっと読み始めることが出来――そのまま一息に読んでしまった。
 題名の通り、この本は歌手の和田アキ子さんが、編集部から「叱り方」というテーマで書いて欲しい……と依頼されて執筆したもので、和田さんなりの叱り方論が、話し掛けるような平易で無駄のない、どこか「ほっ」と心地よい温かみを覚えるような文体で綴られている。挨拶、服装、マナー、親、子ども、若者……ほか、様々な対象に対する「叱り方」を語りながら、やがて教育観・人間観・人生観にまでも広がって行くその内容は、どれを取っても非常に共感を覚えるものばかりで、思わず「そうそう、私もそう思う!」と、一つ一つ頷き続けているうちに、すーっと最後まで読み進んでしまい、期待以上にすっきりと爽やかで気分の良い読後感を覚えた。昨年買った中で、最も共感を覚えることの出来なかった『女性の品格』と比べてみると、全く正反対に「共感度100」の本であったと言っても良い。
 新聞の紹介記事を読んだ時、一番引かれたのは、和田さんがインタビューの中で「“できちゃった婚”は嫌い」だと明言しておられたことであった。これは、私が今、最も嫌いな言葉の一つでもあり、その余りに軽薄で無責任極まるものを感じさせる響き自体からして好きになれないのだが、和田さんはこの本の中でもこれに触れ、親になる覚悟に欠けるカップルや、それを許してしまう風潮を「叱りたい」と書いておられる。言いたくてならなかったことを力強く代弁して貰えたようで、実に溜飲が下がる思いがする。この思いは、読んでいる間中、随所で感じ続けたものでもある。
 手軽に読める新書であるし、価格も税別700円と手頃である。是非一度、手に取って読んでみて戴きたいお薦めの一冊である。

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2007年12月19日 (水)

『広辞苑』第六版発行の報と、その内容改悪について思うこと・再続

 今回の『広辞苑』第六版発行の報を知った知人から、非常に参考になる別意見を聞いた。彼女は中学一年生の息子を持つ母親であり、『広辞苑』は学生時代に買った自分のもの(第三版)を所持している。
 彼女の意見によると、「う~~~~ん……( ̄~ ̄)……私は、流行語は有る程度は拾って載せて欲しいと思ってる。いい(?)大人になってるから、自分から使うことはなくても、会話すれば出て来る。その時、意味を誤解したままだと困るし。それに、倅は真っ只中の世代やから、その都度、間違った言葉遣いは直さないと……と心掛けてる以上、訂正出来ない状態は困るもん。だから、有る程度は載せて貰わないと……そんな言葉を使って貰わん為にも。で、皆が使わなくなって、載らなくなるのが理想……だと思うが。如何?」――ということである。
 更に彼女は、私が、新語・若者語・カタカナ語の類に関しては、廉価で手軽な岩波版『現代用語の基礎知識』――例えば『コージエンNEO』――を年刊で発行して行けば良い……と書いたのを読んで、まず「でも、毎年買われへんもん。o( ̄ ^  ̄ o) こまめに『現代用語の基礎知識』を買い替えられないから、ある程度のっけて欲しいんだけど……」との意見をくれた。確かに、『現代用語の基礎知識』と同等の価格(2007年度版は税込2500円であった)・同等の厚みを持った代物を、図書館や会社であればまだしも、一般家庭で毎年買い続けて行くのは難しいことだろうと思う。
 ただ、私が考えるのは、新語・若者語・カタカナ語の類に限定して、どんどん中身を更新して行く税込500円位の小冊子体裁のものである。『広辞苑』の追補のような形で十年ほど発行して、次の『広辞苑』改訂時にそれを一冊に纏めて同時発行しても良いのではないか……素人の頭では、単純にそんな風に思われるのだが、現在、そうした方向で編まれている辞書があるという情報を、今の所は耳に出来ないことを思うと、恐らく、出版社側には「それ以前の問題」が山積しているのかも知れないな……という気持ちになって来る。
 いずれにしても、せっかくの記念すべき十年ぶりの改訂ではあるが、この最新版を是が非でも個人で購入したい……という気持ちには、矢張りなれない。世間一般の反応はどうなのだろうか。尤も、こういう批評は、実際に実物を手にしてから述べる方が良いのだろうか……とも思うのだが。

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2007年12月18日 (火)

『広辞苑』第六版発行の報と、その内容改悪について思うこと・続々

 私が最初に『広辞苑』の存在を知ったのは、小学生の時に通っていた個人塾で、先生が書店から届いたばかりのこの本を箱から出し、あ・か・さ・た・な……と、行に合わせて小口に油性の黒マジックで線を引いて、見出しを作っておられるのを見た時である。子どもの目には、それは途方もなく分厚く、物凄い内容の辞書であるように映った。少なくとも当時の我家には、あれだけの厚みを持った本は一冊も無かった。今も、あの時の光景ははっきりと覚えている。
 また、他の中型辞書よりも、どこか『広辞苑』に対してより親しみを感じる原因の一つには、学生時代のゼミの時間に、庄野先生が例のユーモアに溢れる口調で「『広辞苑』はね、あの厚みが昼寝の枕に丁度良いんだね」と仰言るのを聞いて皆で爆笑した、あの時の記憶が随分と作用しているような気がする。
 一度採用した言葉は決して削らない――という厳しい編集方針を知った時には、それだから、これだけの長きに渡って多くの信頼を勝ち得ることが出来ているのだろうなぁ……と、感心した記憶があるし、「月見草」であったか「待宵草」であったかの記述に間違いが見つかった、という記事を新聞で読んだ時には、一辞書の記述ミスがニュースにまでなるとは……と随分驚き、改めて、この辞書が国語に対して担っている責任の重さに思いを馳せたことであった。
 少し外れるが、知人の話では、最近の子は小型辞書や電子辞書やネット辞書さえ引くのを億劫がり、専ら携帯電話の漢字変換機能を使って判らない漢字を調べるのだと言う。また、ゼミの同窓生に聞いた話では、最近の子は「弓」という漢字を一筆書きで書いたり、新しく習う漢字を「見て」覚えようとするのだと言う。要するに、漢字をまず“視覚”として捉える傾向にあるらしい。同窓生の一人は、漢字を書いて覚えようとしない甥に「何で書き取りして覚えへんの?」と聞いて「手が疲れるから」と答えられ、思わず「漢字ていうもんはな、ペンだこ作って書き取りしながら覚えるもんやねん!」と叱ったそうである。大切な国語を取り巻く環境さえもが、時流に迎合して軽薄短小の方向に流れてしまっていた結果の一端を垣間見るような気がして、ちょっと恐くなった。
 あの『広辞苑』までもが、「イケメン」「自己チュー」「うざい」といった言葉を採録する――と聞いて、妙に不安を覚えたのは、その背景に、こうした様々な「思い」があったからかも知れない。

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2007年12月17日 (月)

『広辞苑』第六版発行の報と、その内容改悪について思うこと・続

 少し間が開いてしまったが、来年一月に発売される『広辞苑』の新版に関して、もう少し書いてみる。
 次回新たに収録されることが決まったという現代語・カタカナ語・略語の類の中には、「絵手紙」「代引」「猛暑日」「右肩上がり」「内部告発」「コンシェルジュ」「ネットサーフィン」「カルパッチョ」「フィナンシャル」「CEO」「O157」「TRON」――など、既に大して疑問を感じることもなく受け入れていて、それが採録されることに対して余り抵抗を感じない言葉もある。これらは、自分でも必要に応じて使っているし、人が使うのを聞いても別段に引っ掛かったりしない。また、これから先もある程度の長さの時間、確かに生き続けて行く言葉であろうとも思われる。だが、「イケメン」「自己チュー」「うざい」――などは、長い間その意味する所も把握出来なかったし、意味を知ってからも響き自体が好きになれなかったりして、自分で積極的に使うことはしていない。人が使っているのは、何らかの効果を狙って敢えて新しい言葉を取り入れておられるのかな……程度に聞くようにしているが、しかし、これらは果たして、あと何年くらい生き残り続けることが出来るのだろうか。
 私は、耳慣れない新語の類の意味が判らない時には、余程気になる場合は図書館で『現代用語の基礎知識』などを引いて調べることもあるが、何げない会話の流れの中で耳にした程度であれば、その場で相手に意味を尋ねるか、そのまま聞き流して自分も使わない……ということが多い。要するに、根が不精者なのである。それでいて、意味を知らなかったり間違った意味を想像していた場合でも、実際に窮地に陥ったことは一度もない。してみれば、新語の類というものは、余り肩肘張らず、その程度の感覚で気軽に付き合っていても大丈夫な言葉なのではないかな……と、思う。
 少し考えてみたのだが、例えば、一つの言葉の意味を調べたい時、事前に「これは『広辞苑』に載っていそうだ」とか「これは『現代用語の…』でなければ載っていないだろう」――といった当たり(予測)を付けること自体も、言葉というものや、その「新しさ」に対する関心や意識を常に持ち続けていることの表われなのではないだろうか。「これ一冊さえ引けば全て解決する」というような完璧な辞書が存在すれば別だが、複数の辞書を相応に使い分けて行くことにもまた、大切な意味があるように思われてならない。

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2007年11月 7日 (水)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その十二

 ひと通り、書きたかったことは書いたように思うので、ここで改めてラジオドラマを持ち上げておく為に、培養室に残された「Eve」の細胞の「最終処理」を巡る扱いを比較してみる。
 映画では、イヴの目的に気づいた利明が、培養器に残る「Eve」の細胞の入ったプレートを、一部は加圧殺菌器(オートクレーブ)に投入するものの、残りは怒りに任せて床に投げつけ、更に冷蔵ボックスで叩き潰す。器械を作動させて全ての細胞を完全に消滅させる場面はない。
 原作小説では、卒業式を終え、懇親会を抜け出して研究室を覗いた佐知子が、冷凍保存されていた「Eve」の細胞の入った血清チューブの存在を、たまたま戻って来た下級生から知らされ、自らの手でオートクレーブにかけて処理する。あれだけ恐ろしい目に遭っていながら、半年近くも忘れていたというのは少々迂闊過ぎる。
 劇画では、卒業式の後、下級生たちが冷凍庫の中の血清チューブを見つけ、よくある卒業生の忘れ物だと「捨てますか?」「いいよ。後で取りにくるかもしれないし」――その会話を交わす一人に、イヴ再来の気配を匂わせつつのエンドマークとなる。
 ラジオドラマでは、イヴも利明もイヴの娘も絶命し、全てが終わったと誰もが思った後、篠原が突然、利明の言い残した「研究室」という言葉を思い出す。更に、入院中の佐知子が失踪したと知って研究室に急行すると、そこには、イヴの意志に操られた佐知子がいる。残された細胞を培養せよと強硬に命じ続けるイヴの声に、佐知子は遂に打ち勝ち、篠原とあずさの目の前で、「Eve」の細胞をオートクレーブにかける。イヴの本当の断末魔の叫びが響き渡って――と、イヴの執念の凄まじさが最も強調され生かされる形にアレンジされている。
 これらを比較しただけでも、ラジオドラマの仕上がりの素晴らしさが想像出来はしないだろうか……。
 最後に、このラジオドラマの「極めて個人的な楽しみ」のお話を一つだけ。例えば、聖美が脳死に向かいつつあると告げられる場面や、聖美の臨終の場面などは、私には物凄く贅沢な場面であるように思われる。何故ならば、そこに登場し会話しているのは、利明と聖美の父と脳外科医――黄金聖闘士(ゴールドさん)ばっかりなのである。因みに、これに吉住医師と麻理子の父を加えると、更に「黄金聖闘士の半数近くがイヴの物語に関わった」ことになる。全くもって、これほど贅沢なことがあるだろうか……。

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2007年11月 6日 (火)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その十一

 かくして、ラジオドラマ版、原作小説、劇画版、映画版――の四つを自分なりに見聞した上で、何やかやと感じ取ったことを書き綴って来た訳であるが、そろそろ纏めに入る意味から、例によって、おこがましさの極みとも言える「星沢式わがまま採点」を、これら四つの作品に対しても試みてみようと思う。
 100点満点で無理矢理に点数を付けるならば、私の感覚では、ラジオドラマ版が120点、原作小説が80点、劇画版が90点、映画版が60点……といった感じである。あくまでも、私の個人的な価値観・尺度で採点してみた結果である。
 ラジオドラマに関しては、私としては何一つ文句の付けようのない仕上がりである。CD6枚に及ぶ上演時間を「長過ぎる」と感じられる向きもあるかも知れないが、連続ドラマであるから長いのは当然であるし、私には全く気にならなかった。強いて難を挙げるならば、塩沢さんの出番が少ないということだけである。しかし、役柄としては全く過不足のない扱いであるから、これは減点の対象にはならない。
 原作小説に関しては、専門用語が多用されていることの難しさについては、題材が題材であるから当然のことだと考える。ただ、先にラジオドラマを聞いてから読んだ身には、例えば、麻理子がかつて免疫抑制剤を捨てた理由や、研究室に残された「Eve2」以下の処理の仕方、篠原医師の浅倉佐知子への思い……などを中心に、少々物足りなさを感じる部分が複数箇所あったので、偉そうにも減点させて戴いてしまった。
 劇画に関しては、原作を忠実に再現すると同時に、部分的に原作以上の説得力を加味して、より自然で必然的で判りやすい設定に変えていること、神話的・宗教的なイメージの挿入によって(これは、原作者も後記で褒めておられる)また新たな魅力を増し加えることに成功していること……などから、本当は100点と考えたのだが、時折画面に入る“遊び”の部分(錫杖を持った袴の少年、中指を立てて舌を出したイヴなど)が、今一つよく解らなかったので、少し減点させて戴いた。
 映画に関しては、もう、惜しい……の一言である。あれだけの原作が生かされ切っていない恨みは、相当に大きい。制作からちょうど10年になるし、その後のより発達したCG技術を駆使して、そろそろリメイク版やアニメ版が作られても良い頃ではないかと思う。
 ――様々にご意見もあることとは思うが、私自身の評価は、ほぼ、こんな感じである。

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2007年11月 5日 (月)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その十

 ここで、それぞれの『パラサイト・イヴ』で特に気に入っている所などを紹介してみる。
 ラジオドラマでは、麻理子が免疫抑制剤を服まなかった理由を(夢の中の回想ではあるが)青山くん絡みでもう一つ追加してある所。青山くんへの思いと生体腎移植のことを、男子生徒らに手ひどく揶揄われ苛められた悔しさから、それを慰め励ましてくれた青山くんさえ突き放してしまった麻理子。男子生徒らへの怒りや悔しさ、そこから唐突に噴出した腎移植そのものへの嫌悪に、初恋を自ら壊した自分への憎悪・後悔も加えることで、自暴自棄になって父や執刀医や新しい人生への感謝の念さえ忘れ、命の綱である免疫抑制剤をトイレに叩き込んで流し捨ててしまう、その心の動きに更に説得力が増す。しかし、あの青山くんなら、今度こそ本当に元気になって戻って来る麻理子を、広い心で迎えてくれそうな気がする。「生きてれば良いじゃん」という彼の言葉を、麻理子がちゃんと覚えているからである。篠原と佐知子の間柄の発展を思わせるような纏め方も、何だかほっと出来て救いが感じられる。最後に、あずさが吉住に「今は私がよく夢を見るんです」と、イヴの再来を暗示するような夢の話を語る所も、まだまだ継続する恐怖を思わせて巧いと思う。
 原作小説では、逆三角形になるように活字が組まれている、イヴと結ばれた利明が意識を取り戻す部分(P.350, L.3-18~P351, L.1)。文章自体の表わす心情や状況に加えて、活字そのものによる視覚効果に人物の意識状態を重ね合わせて表現しようという試みが面白い。
 劇画では、事故の朝、聖美が車を出して投函しようとしていた親友の智佳(医師の卵)宛の手紙の内容が、イヴのことに関する相談であったと設定されている所。これにより、事故はイヴが自身の存在や正体を利明に悟られる前に事を運ぶ為に、その日に起こすべくして起こしたことが更に説明づけられ、より納得出来る。
 映画では、聖美の交通事故場面で、オープンカーに乗せた聖美をトラックに追突させた後、荷崩れを起こした鋼材が気絶した聖美目がけてゆっくり滑り落ちて行きそうな気配を見せておいてカットし、利明が駆けつけた事故現場で、その鋼材がフロントガラスを突き破って運転席で止まっている絵を入れている所。イヴが「聖美の臓器を傷つけることなく殺す」ことに成功した――という事実が容易に納得出来、映像芸術ならではの表現が成功していると思う。

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2007年11月 4日 (日)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その九

 追加されていて疑問に感じたこともあれば、「省略されていて疑問に感じた」ことどももある。続いて、それらを列記してみる。
1.麻理子の移植が過去に失敗した経緯が殆ど語られないこと。父からの生体腎移植であったことも、故意に免疫抑制剤を服用せず、生着した腎の摘出を余儀なくされたことも、以来、父にも吉住医師にも心を開かなくなったことも、麻理子が父の腎を駄目にした原因に大きく関わる初恋の相手・青山くんの存在も、一切削られている。麻理子とその腎臓に対する吉住の特別な思い入れの理由も、難しい年頃の麻理子と男親である父との確執も描かれず、結果として、麻理子を巡るドラマの奥行きが非常に浅くなっている。
2.篠原医師の存在が全く省略されていること。その役割は吉住医師に兼任させる形で纏められているが、残念ながら、そこから返って様々な不自然さが生じてしまっている。
3.聖美のミトコンドリアに対する興味や恐怖が、具体的には殆ど描かれないこと。
4.聖美の葬儀の場面が削られ、時間の経過も掴みにくいこと。聖美の死から終幕まで、一体何日が経過していることになるのだろうか。
5.移植コーディネーターであるあずさの、ドナーの遺族に対する配慮が余りにも足りず、レシピエントである麻理子やその父との交流も皆無に近いこと。双方の心のケアに心を尽くすことこそが、移植コーディネーターの最も重要な職務なのではないのだろうか。
6.聖美の片方の腎臓の行方が全く語られないこと。ほんの一言ずつの会話で処理出来るのではと思うのだが。
7.イヴに取り憑かれた佐知子が、学会の壇上で発火・負傷しないこと。発火するのは司会者のみで、佐知子は気絶するだけである。
8.新生命体の誕生、宿主細胞の腐敗によるEve1の死滅、利明と娘である新生命体の炎上――クライマックスの場面がどれも無いこと。
9.研究室に残されたEveの処理が描かれないこと。燃え尽きもせず、加圧殺菌もされず、残りのEveは一体どうなったのだろうか。物凄く気になる。
10.麻理子や佐知子のその後が語られないこと。これもひどく気になってならない。
 ――ざっと、こんな所だろうか。原作できちんと用意されていた劇的な要素が、尺数の問題もあってか、随分と削られていることが非常に惜しまれる。こうした省略法は、下手に多用し過ぎると、時として作品そのものの仕上がりを損ねかねない場合もあるのではないだろうか。

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2007年11月 3日 (土)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その八

 ここまで、やや漠然とした感じで書いて来たので、ここで、映画版に関して「追加されていて疑問に感じた」ことどもを、少し具体的に列記してみる。
1.屋外授業の小学生たちの眼前で、突如飛来して蝸牛を食い殺す鳥。ミトコンドリアと宿主との関係を暗示して迫力はあるのだが、冒頭の場面でも画面を横切るこの鳥が少々作り物ぽく、やや浮いた感じが否めない。
2.鳥と蝸牛の一件を佐知子から聞いた利明が、リン・マーグリスの説を交えた見解を語る場面。一般には余り馴染みのない専門的なものに聞こえ、ちょっと難しい。
3.腎提供への同意を渋る利明の元に、移植医療の専門家である吉住医師が直談判に来る。これは、素人目にも不自然である。
4.腎の摘出・移植を行う移植班のスタッフが着用する真赤な手術着。術者の集中力にも影響しそうで不自然に思われる。
5.如何にも古めかしい外観・内装の市立中央病院。洗面台の蛇口や看護婦さんらの白衣もまた然りだが、強いての必要性が感じられない。この事件は、近代的な最新設備の病院で起こってこそ、恐怖も倍増するように思えるのだが。
6.イヴの佐知子への取り憑き方。たった一雫のイヴが、その片耳から侵入し、片目から涙のように流れ出て離れる――少々あっさりし過ぎの感がある。
7.聖美がイヴの存在への恐怖を書き綴っていたノートを自宅で見つけて、初めて真実に気づき衝撃を受ける利明。既にイヴと結ばれてしまってからのことでもあり、今一つぴんと来ない。
8.麻理子と同室の狐面をつけた男の子。視覚的な恐怖の表現としては面白いが、どこか取って付けた感じもする。
9.外観・内装の古めかしさの割に、妙にハイテク過ぎる市立中央病院の警備システム。そのギャップの大きさに、返って現実味が削がれる気がする。
10.利明と聖美の聖夜の出会いと、入学式で既に意識し合っていた記憶の回想の場面。そこにイヴの意志も関与も感じられず物足りない。
11.利明らの車に便乗して市立中央病院へと到達するイヴ。自力で下水道を伝って目指す腎臓の元に辿り着く方が、よりイヴらしくはないだろうか。
12.利明とイヴが抱き合って燃え上がる火柱となる場面。余りに静かで小ぢんまりとした終幕に思えた。
 ――ざっと、こんな所だろうか。全体として、オリジナル色を出そうとし過ぎの観があり、意欲は買いたいが、それぞれに原作を超えるまでの迫力を持つに至っていない……といった印象がある。

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2007年11月 2日 (金)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その七

 映画版は、1997年2月に劇場公開され、同年8月にビデオ、2004年3月にDVDがフジテレビ・角川書店から発売されている。私が見たのはビデオ発売分である。監督は落合正幸氏、脚本は君塚良一氏。仕上げ尺数は120分。配給は東宝。
 この映画版の特徴を一言で述べるならば、最大の主人公でありタイトル・ロールでもある「イヴ」の声(意志)が画面から殆ど聞こえて来ず、割愛すべきではなかったのではと思われる場面や挿話や設定が割愛され、追加されなくても良かったのではと思われる場面や挿話や設定が追加されている感じ……とでも言えば良いだろうか。全体として……残念ながら私には、大満足出来る仕上がりではなかった。
 脚本・演出・美術ほか、作品を構成するどの要素を取っても、何だか「あと一歩の所が足りない気がする」ものばかりに思われた。視覚的に最大の見せ場となる筈の、イヴが聖美の姿を形づくる場面のCG処理には、もっともっと力を入れて戴きたかった気がするし、他の特殊撮影場面も「あと一歩踏み込んで欲しかった」と思えるものが多かった。最大のクライマックスとなるべき、イヴが麻理子を攫ってから終幕へと突き進むまでの件りが、随分と盛り上がりに欠ける感じがしたのも残念であった。
 あの原作の映画化であれば、もっと凄い作品になった筈なのに……というのが正直な感想である。
 配役に関しては、全体的に「この俳優さんではいけない、という訳では決してないけれども、それでもどこか、より一層イメージに近い俳優さんが他にもおられたのではないか、という気がする……」といった感が、最後までつきまとった。決してキャスティング・ミスであるとは思えないのに、そうした印象を抱いてしまったのは、作品の中で各キャラクターたちが「生かされ切っていなかった」為ではないか……という気がしてならない。
 余談になるが、初めて見た時、私は、「顔も名前も知っている俳優さん」が、河原崎建三さんと萬田久子さんと大杉漣さんと三谷昇さんだけ――であるということに、非常な衝撃を受けてしまった。こう言うと世代が判ってしまいそうであるが、事実なので仕方がない。無論、三上博史さん、葉月里緒菜さん、別所哲也さん、中嶋朋子さん、渡辺いっけいさん、深水三章さんなどは、当時の私にとっては、単に「顔と名前が一致しない俳優さん」であっただけで、全く知らない俳優さんであった訳ではない。(しかし、稲垣くんは顔も知っている俳優さんだったのに、何故、記憶に残っていなかったのか……今だに謎である)

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2007年11月 1日 (木)

『広辞苑』第六版発行の報と、その内容改悪について思うこと

 来年一月、『広辞苑』の新版が十年ぶりに発売されるという。今回の改訂の特色の一つとして、現代語や一般語――平たく言えば、新語や若者語やカタカナ語の類などから、「流行に留まらず定着したと認められる厳選された新語」が多数掲載されるということなのだが、その具体的な内容を聞くに及んで、思わず耳を疑ってしまった。
 私の感覚では、『広辞苑』に掲載されることは、即ち、正しく普遍的な日本語として最も権威ある日本語辞書の一つに認められたということ――である。無論、言葉が常に変化を続ける生き物であることは了解している。しかし、今年は存在していても、来年にはもう「死語(笑)」のように呼び貶められる可能性が高いのではないかと、素人目にも容易に推測のつきそうな言葉の数々を、あの『広辞苑』に掲載することには、随分と問題があるのではないだろうか。「イケメン」だの「自己チュー」だの「うざい」だのといった言葉が、果たして次の改訂時まで生き残り続けているだろうか。また、そうした言葉をごく普通に使う世代が、電子辞書や小型辞書より扱いにくい形態の中型辞書を、決して安くはない費用を払って買い求め、持て余すことなく活用するだろうか……。
 そうした言葉の収集や選定は、既存の『現代用語の基礎知識』(自由国民社)などに任せておけば十分だと思う。或いは、どうしても自社発行の辞書にそれらを網羅する必要があるのであれば、廉価で手軽な岩波版『現代用語の基礎知識』を年刊で発行して行けば良い。こうなったら、『コージエンNEO』でも『New Kohjien』でも『現辞苑』でも構わない。知人は頭文字を取った『GYKCアニュアル』という書名を即座に考えてくれた。
 一冊買えば、十年二十年の長きに渡って家族中で使うことが出来る辞書である。電子辞書やCD-ROM版の百科事典などが次々と発売され、冊子体の辞書や事典は急速に需要が減って来ていると言われる昨今、あの存在感溢れる形態とずっしりとした重量そのものに、国語の風格・言葉の重みがまさに籠もっているようにさえ感じられる中型辞書には、矢張りそれ相応の厳格さや権威や重厚さを求めたいものである。
 因みに、うちのひつじに「『広辞苑』の第六版に生える図書館きのこと、第五版以前の分に生える図書館きのこ、どっちが美味しい?」と尋ねると「第六版にはね、よっぽどのことがなければ図書館きのこは生えないと思うよ~☆」とのたまった……。

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2007年10月29日 (月)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その六

 劇画版は、《ASUKAファンタジーDX》の1997年2月号~6月号と8月号~12月号に連載され、1998年3月に単行本化されている。私が読んだのは、そのあすかコミックスDXの10版で、2000年10月に発行されたものである。作者はしかくの氏。巻末には、原作者による解説も収録されている。解説まで含めて396頁ある。
 この劇画版の特徴を一言で述べるならば、原作小説に沿って展開する物語の随所随所に、原作にはない「神話的・宗教的なイメージ」のイラストやネームが散りばめられて、独自の雰囲気を醸し出していること、それが読み手の意識を聖書の世界へと無理なく導き、原作の裏側に流れる神話的・宗教的な要素を効果的に描き出すことに成功していること――ではないかと思われる。
 これは、聖美の誕生日である「クリスマス・イブ」に由来するEVEと、イヴ、則ちミトコンドリア・イヴの名前の元となった「アダムとイヴ」のEVE――奇しくも綴りを同じくする「Eve1」の名前から、ある種の必然性を持って導かれたアイデアであるのかも知れないのだが、読んだ途端、これには思わず唸らされてしまった。神・魔・人、全ての要素を備えるイヴ、処女懐胎する麻理子、新しい生命体の誕生を目撃する利明・吉住・安斉を東方の三賢者に例え、宇宙樹を思わせる系統樹に天使に林檎……巧い手法である。
 ここまで来て、私はふと、もしかすると、しかくの氏は女性なのではないだろうか……と思われて仕方なくなって来た。漫画界にも極めて疎い私であるから、残念ながら当時も現在も、しかくの氏の性別までは知らない。しかし、ラジオドラマも劇画も、女性脚本家・女性漫画家による潤色という過程を経ることによって、男性である瀬名氏の原作が持つ作品世界や主題を、更に鮮明に表現し直すことが出来たのではないだろうか、そうしてそれが、ラジオドラマや劇画の成功に繋がったのではないだろうか……という気がして来たのである。
 例えは少し違うかも知れないが、それは、一般に男性の手になったと言われる古典の『落窪物語』が、近年、女性の手で再話されたものほど「私好みの仕上がりだなぁ……」と思われてならないことと、どこか繋がるような気がする。
 「女性」がここまで深く濃く描かれる作品であるからこそ、更に女性の手を加えることにより、新たな魅力を確かに獲得することが可能となったのではないだろうか……そんな風に思われてならない。

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2007年10月28日 (日)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その五

 【謝辞、及び…】の中で、イヴが受精卵を植え付ける為に聖美の腎を移植した麻理子を確保する理由を、組織適合性の問題があるからだとしたのは自分としても「信じられないようなミス」だった……と、著者自らが書いておられるのを読んで、素人の私は思わず小首を傾げてしまった。ラジオドラマを聞いた時点では、受精に成功したイヴが、手近な女性(薬学部の女子学生、一度は取り憑いた浅倉佐知子、聖美に近い遺伝子を持つその母など)に借り腹をすることなく、あくまで麻理子を選んだ理由は、イヴの卵子が極めて特別なものなので、着床させる為の子宮もまた、事前に特別な環境に整えておく必要があったからだろうな……と、漠然と想像して何の疑いもなく納得していたのである。
 イヴほどの特殊な存在の卵子から生まれる純血種の娘には、借り腹の環境では育つことが出来ない脆弱さがあるのに、イヴにはその為の子宮を作るだけの力がない。だからこそ、十億年も待ち続けてミトコンドリアに深い興味を持つ男性を選定し、宿主をその伴侶にし、腎臓バンクに登録させ、腎臓を傷つけずに死なせ、自らの増殖環境と特別な子宮環境の確保を同時に果たす――という面倒な手配を完璧に整えた上で、事を起こす必要があったに違いない……。素人ならではの単純な解釈と納得である。しかし、専門家である著者は、文庫版で矛盾を修正されたと言う。恐らく、「ヒトと異なる種の受精卵は普通のヒトに移植しても発生できない」(P.356, L.17-18)、という部分だろうか。
 ラジオドラマを聞いた時点で、素人なりに最も気になっていたのは、もしも聖美の腎が二つとも男性に移植された場合、イヴはどうやって娘(卵)を育てるつもりだったのだろう……ということであったが、これは、原作では「彼らを操って適合する女のリストを検索させようとも考えていた」(P.309, L.7)と書かれていた。その場合、イヴはまた別なやり方で子宮環境を整えるつもりであったのだろうか。年齢や他の疾病の影響で子宮が思惑通りに利用出来ない女性に移植された場合も、そうしたのかも知れない。
 そう言えば、これも素人の頭で漠然と思うのだが、あのイヴの力と執念を持ってすれば、或いは極端な話、聖美の卵巣を乗っ取って自力で一個の卵子にまで進化し、程なく受精卵となってその子宮に着床することも可能だったのではないのだろうか……いや、それでは、お話そのものが成り立たないか……。

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2007年10月27日 (土)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その四

 原作小説は、1995年1月に角川書店主催の第二回日本ホラー小説大賞を受賞し、同4月に単行本化、翌1996年12月に文庫本化されている。私が読んだのは、その角川ホラー文庫の6版で、2000年1月に発行されたものである。巻末には、著者による【謝辞、及び文庫版における変更点について】も収録されている。解説まで含めて490頁ある。
 どちらかと言うと、ホラー物は昔から苦手な部類であるし、加えてこの作品には、理数系さっぱりの私には何が何やら皆目解らない生化学や移植医療の専門用語が次から次へと登場するし……先に全く何の予備知識も持たずに読み始めていれば、恐らくは早々に挫折してしまっていたに違いない。しかし、専門用語に関しては、ラジオドラマで得たある程度の知識と慣れのお蔭でか、さほど抵抗なく読み進むことが出来た。
 尤も、私の場合は、それらの専門用語を「作品世界の雰囲気作りの為に用意された、一種の小道具」のように捉えているフシがあり、決して、プライマリー・カルチャーだのレチノイドレセプターだのインキュベーターだのといった用語の持つ正確な意味を、きちんと理解した上で読んだ訳ではない。むしろ、あれだけ夢中で聞くことになったラジオドラマの、その原作に対する興味の方が先行していて、その行間に滲む独特の恐怖を、「あの場面のあの音の世界は、元々はこういう文で表現されていたのか……」という風に、感心し納得しつつ楽しみ直す……といった感じで読み進んだ。
 角川書店と言えば、かつて『人間の証明』が映画化された時の「読んでから見るか、見てから読むか」という有名な宣伝コピーが今も記憶に残っているが、この作品の場合、私は「聞いてから読んで良かった」と、しみじみ思う。もし仮に、ラジオドラマに塩沢さんが出ておられなかったら、先にこの原作を読んでいたとしても、果たしてラジオドラマまで聞いてみたいという気持ちになったかどうか……いや、それ以前に、読み始めはしたものの、あの専門用語の嵐に到底ついて行けず、途中で投げ出してしまった可能性の方が高いかも知れないのである。
 いずれにせよ、苦手な部類に属する「話題の小説」を一つ、ともかくも読み通すことが出来たことは、ラジオドラマのお蔭であるとは言え、また、文字通り「遅まきながら」であるとは言え、私にとっては非常に嬉しい出来事であった。

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2007年10月26日 (金)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その三

 ラジオドラマは、1995年10月10日から12月8日まで、TBSラジオで月曜日から金曜日の「角川ドラマ・ルネッサンス」枠にて、全44話に渡る連続ドラマとして放送された。再録版CDは、翌1996年4月25日に『ドラマCD パラサイト・イヴ 上巻』(第1話~第23話収録/3枚組)が、同5月25日に『ドラマCD パラサイト・イヴ 下巻』(第24話から第44話収録/3枚組)が、ポリスターから発売されているほか、同内容のCDブックも角川書店から同時発売されている。
 このラジオドラマ版の特徴を一言で述べるならば、音声のみで構成される放送劇としての長所や利点を最大限に生かしつつ、より効果ある新しい挿話を随所に加えながら、決して原作の持つ独特の雰囲気を損なうことなく、全体として無理も破綻もない一つの独立した作品として仕上がっている――といった所ではないかと思う。原作付き作品として見ても、一個のオーディオドラマとして見ても、極めて完成度の高い成功作であると言えるだろう。(私の中では、あのNHKの『宮本武蔵』レベルの完成度、と位置づけられている)
 全44回・344分に及ぶ長丁場にも関わらず、物語は決して中弛みするようなことなく、最後までぴんと張りつめた緊張感を保って淀みなく展開して行く。脚色の際に追加された、より劇的な新しい挿話や更に膨らみを増した各人物像なども、如何にも的確で何の違和感も感じさせない、本当に自然な仕上がりになっている。
 配役もまた、この作品の成功の一端を担った重要な要素であると言っても過言ではない。まさに適役揃いの上に、声の演技に長けた人材が贅沢な位に集められ、最後まで安心して聞いていられるお蔭で、作品世界に集中してどっぷりと浸ることが出来る……これは、非常に大切なことであると思う。
 決して、「最初に接したものが一番良いように思われる」ものである――といった単純な理由から来るものではない。原作のある放送劇としての、作品自体の完成度の高さそのものが、素直にこれだけ褒め上げたくなってしまうだけの大きな感動と満足感を与えてくれるのである。
 余談であるが、このラジオドラマは、夜、お布団に入って暗い中で一人で聞くのが最も相応しいような気がする。ドラマ自体にじっと集中して耳を傾けることが出来、例えば、ぺたん、ぺたん……と迫り来るイヴの恐怖を、より増幅させた状態で感じることが出来るように思うからである。

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2007年10月25日 (木)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その二

 まず、物語の大筋を、四つの作品に共通する部分と主な登場人物を中心に、ざっとまとめてみる。
 ミトコンドリアの研究を専門とする永島利明は、妻の聖美が交通事故で脳死状態となった際、その肝細胞を自らの手で培養することで「生かし続ける」道を見いだす。腎臓バンクに登録していた聖美の腎の一つは、14歳の安斉麻理子に移植される。驚異的な増殖能力を見せる聖美の肝細胞「Eve1」に、利明は憑かれたようにのめり込んで行くが、これらは全て、聖美の中に寄生していたミトコンドリアが計画的に仕掛けたものであった。「Eve1」はやがて、聖美の姿を作り上げるまでに増え、利明との間に出来た受精卵を着床させて新しい究極の生命体を生み出すべく麻理子を攫う。その真の目的は、ミトコンドリアと宿主細胞の立場を逆転させ、人間に取って代わってこの世の支配者となることにあった……。
 主な登場人物は、まず、十億年越しに抱き続ける壮大な野望と、それを達成するべく見せる凄まじくも強烈な執念で、文字通り全てを圧倒するイヴ(「Eve1」の中のミトコンドリア)。ミトコンドリアに対する知識の深さと妻への愛情の深さ故に、イヴに選ばれ操られ、その巧みな罠に落とされて、人間として取り返しのつかない所にまで追い込まれて行く永島利明。自らの内に宿るイヴの存在とその台頭に、次第に気づき始めながら抵抗することも叶わず、無惨に命を奪われる妻の聖美。薬学部の優秀な修士学生であり、師の利明に密かな思慕を寄せる浅倉佐知子は、成り行きで「Eve1」の培養に携わり、かつてない恐怖を体験する。繊細多感な少女の身に二度の腎移植を受けた安斉麻理子は、移植への抵抗、周囲への不信、そして迫り来るイヴの恐怖に怯え苦しみながら懸命に戦う。年頃の娘との深刻な心の擦れ違いに悩みながらも、移植を通じ事件を通じて父娘の絆を取り戻して行く麻理子の父。先の腎移植の失敗後、理由も話さず心を開かないままの麻理子を、今度こそ助けたいと全力を尽くす移植担当の吉住医師。不安定な麻理子に対し、極めて親身で細やかな心づかいを見せる、有能な移植コーディネーターの織田あずさ。聖美の肝細胞採取に手を貸しながら、その培養にのめり込む利明を案じ、折々に注意を喚起させようとする友人の篠原医師――こんな感じである。

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2007年10月23日 (火)

「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれ・その一

 昨日、たまたま職場で「SMAPのメンバー諸兄は、ドラマ出演は多いのに、映画出演は以外と少ない感じ」だという話題が出て、その流れで上司に「『パラサイト・イヴ』に稲垣くんが出てたみたい。覚えてる?」と聞かれたのだが、この映画は(ビデオでだが)見ていたにも関わらず、そこの所が記憶から全く抜け落ちていることに気づき、思わず一人で慌ててしまった。
 瀬名秀明氏原作のこの作品との出会いは、まず、ラジオドラマからであった。しかも、1995年10月の本放送は情報を得られずに聞き逃し、翌年4月に発売されたCDのことも随分と後になるまで知らず、やっと2000年になってから購入はしたものの、折からの一件に遭遇したことで、これも長い間、どうしても聞くことが出来なかった。
 そうして、暫くの時間を置いて後――初めてCDでラジオドラマを聞いて……結果的にすっかりはまってしまい、次に角川ホラー文庫の原作を買って一気に読み、続いてあすかコミックスDXのしかくの氏による劇画を読み……それぞれに唸らされるものがあって更に興味を深くし、ちょうどその頃、実写映画が制作されていたことを聞いて、レンタルビデオ店に足を運んだのである。
 これらは、書籍類の奥付にある発行日から推測すると、恐らくは2000年の秋以降のことであったようなのであるが、残念ながら定かな記憶がない。ただ「ラジオドラマではまり、立て続けに小説、劇画、映画……と突き進んだ」ことだけははっきりと覚えている。また、この経緯とそれぞれの作品を比較して魅力の解剖をするような文を「星の実」に書いてみようか……と思い立ち、仮の題名を「四つの『パラサイト・イヴ』」とだけ付けたことも覚えているが、例によって、この文も今もって完成していない。(全くもって、褒められた話ではない……)
 せっかく職場の話題に出たことでもあるし、ちょうど良い機会であると考えて、その「四つの『パラサイト・イヴ』」を巡るあれこれを、軽く綴ってみようかと思う。
 ここで言う「四つ」とは、ラジオドラマ版(吉田玲子/脚本:1995年10月~放送)、原作小説(瀬名秀明/著:1995年4月刊行)、劇画版(しかくの/著:1997年2月~連載)、映画版(落合正幸/監督:1997年2月~公開)――の四作品を指す。

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2007年3月15日 (木)

『亡食の時代』を読んで

 題名からも想像出来る通り、これは、現在まさに崩壊しつつある日本の食生活を主題に据えて、昨年の一月から十一月まで産経新聞に連載された記事に加筆し、一冊にまとめた本である。具体的には「家庭の食卓」「給食」「食文化」「食産業」「食と健康」「食教育」……など、様々な角度から焦点を当てて取材された現状の数々が報告されており、極めて興味深く読めると共に、その余りに凄まじい実例のオンパレードには、もう、驚きも怒りも呆れも通り越して、ただ恐ろしく、そして虚しく思われて来るばかりである。
 例えば、栄養士さんの努力で手の込んだ本物の味の給食が実現すると「給食でいいものを食べているから、家で手が抜けていいわ」という“喜びの声”が届いた――など、ちょっと信じ難いような報告がこれでもかと言うほど続く。「食育」という最近の造語を引くまでもなく、家庭や学校での「食」とは、様々な意味に於いて、そのまま大切な「教育」に通じるものであり、それを子どもに伝えることは、親や教師の義務である筈なのに……。犠牲にするには余りに大きな「食べることの大切さ」が、何と軽視され続けて来たものだろうか。無論、それではいけないと、自治体を始め、多くの心ある人々の尽力によって、少しずつ改善の方向へと社会も動き始めている……といった、少し救いのある記事もある。
 一つだけ、物足りなく思われたのは「味覚異常」に関する記述が無かったことである。「味覚崩壊」の記事はあるのだが、偏食による、亜鉛など微量栄養素の欠乏から起きる、「ケーキが苦い」「唐辛子が辛くない」――といった、戦慄すべき症状に関しても、是非、言及して欲しかった。何となく、連載中に読んだように思っていたのだが、どうも、他の記事と混同していたようである。
 いずれにしても、これは是非、老若男女を問わず、一度は読んでみて戴きたい本である。特に、親の立場にある人、そして、出来れば小中学生にも読んで貰いたい。元々が新聞の連載記事であるから、常用漢字以外の漢字にはルビが振られているし、活字も大きめで読みやすく、小学五年生くらいから十分に読めると思う。保育園・幼稚園・小学校・中学校を取材した記事も多いから、きっと興味や親しみを持って読んで貰えるだろう。何より、新書であるからお小遣いで十分買える筈だし、気軽に鞄に入れて持ち歩くことも出来る。是非とも、一人でも多くの方に読んでみて戴きたいと思う。

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2007年2月28日 (水)

『タイアップの歌謡史』を読んで・後

 二つ目は、アニメソングとのタイアップに関する記述の中の「八〇年代にも『みゆき』でH2Oが従来の“アニソン”から離れた主題歌「想い出がいっぱい」を唄ってヒットさせたりする例はあったが、アニメの内容とかけ離れた内容の主題歌が主流になったのは、九〇年代のビーイングのタイアップ以降の現象と思われる」という一文である。TVアニメ『みゆき』の放映開始は1983年だが、私の実感としては、こういう傾向の曲はもっと早い時期から存在していたように思う。特に、劇場アニメに印象深いものが多い。売り上げの数字までは判らないが、最も古い記憶にあるのは「ヤマトより愛をこめて」(1978)と「炎のたからもの」(1979)で、ほか、例えば塩沢さんの出演作品だけを見ても、『機動戦士ガンダム』(1981)の「砂の十字架」、『宇宙戦士バルディオス』(1981)の「素顔のままで」、『戦国魔神ゴーショーグン』(1982)の「涙の法則」、『ザブングルグラフィティ』(1983)の「GET IT!」などがある。デラ・セダカの「星空のエンジェル・クイーン」(1982)、ローズマリー・バトラーの「光の天使」(1983)なども、その類であると思われる。尤も、これらの曲は、作品の主題や世界観や雰囲気をきちんと歌い表わしつつ、一般向けの歌としても十分に通用する――というものなので、「アニメの内容とかけ離れた内容の主題歌」とは、また違った部類に属するのかも知れないのだが。
 三つ目は、バーチャル・プロフィールに関する記述の中の「このような流れは、二〇〇三年の映画『黄泉帰り』に主演した柴咲コウがRUI名義で唄った「月のしずく」がミリオンセラーとなったところから始まり(後略)」という一文である。私のなけなしの知識から考えてみると、TVドラマ『ムコ殿』(2001)の桜庭裕一郎の方が早かったと思えるのだが、しかし、何よりその前に、私にはそれ(バーチャル・プロフィール)が最近になって生まれた特別視すべき戦略のようには余り思えて来ない。多分、声優さん方の活躍の場であるアニメ界やイメージアルバム界では「役を背負った歌」が随分と昔からごく当たり前に存在していたからであろうと思われる。考えてみれば、塩沢さんの歌っておられた歌もまた、殆どがそうであった。
 結局、この本を読んで得た最大の収穫は、私自身の知識や常識や価値観や感覚の偏りを、またも思い知らされてしまったこと――ということになるだろうか。

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2007年2月27日 (火)

『タイアップの歌謡史』を読んで・前

 最近読んだ『タイアップの歌謡史(新書y)』(速水健朗著/洋泉社刊)は、歌謡界にとことん疎い私にとっては、ごくぼんやりとしか考えたことの無かった「“歌謡曲”とCMやドラマとの意図的な関わり合いの歴史」に、改めて意識を向けることの出来る一冊であった。読み終えて、全体から漠然と感じたのは「商業目的で仕掛けられた一部の誰かの思惑に、無意識のうちに乗せられる現実を再確認することの心地悪さ」とでも呼べそうな気分であったが、「歌」というものを単に、消費される製品・利潤を生む商品としての側面から眺めると、こんな感じにもなるのか……と、なかなか興味深いものがあった。
 ただ、内容そのものとは関係なく、誤植らしき箇所が結構目についたのが気になった。ざっと思い出してみただけでも、校正漏れと思われる所が十数箇所あったと思う。ちょっと読み返しながら拾ってみると……「コロンビア」「広告収入を見込みのに」「ベットタウン」「一定の規律のに労働」「見上げてごらん夜空の星を」「レコードが発売し」「生んだだといっても」「ドラマが作るために」「流されるものだがら」「ラブソング唄わない」「仕入れが行わなくなった」――などがある。曲名や人名やグループ名などは、元々の予備知識が殆ど無いので、もしミスがあったとしても読み流してしまっているかも知れない。また、少々こじつけ・飛躍に過ぎるのではと思われる記述が散見されたのも気になった。
 ほか、少しばかり「あれ?」と感じた箇所が三つほどあった。
 一つ目は、『東京ラブストーリー』についての記述で、「このドラマでは主題歌が大きな比重を占め、毎回ラスト付近のクライマックスシーンに主題歌のイントロ部分がかぶせられた。これは『男女七人夏物語』でも使われた手法である」とあり、それが「ラブ・ストーリーは突然に」の記録的なヒットに繋がったように書かれているのだが、もし、ラスト付近にイントロ部分が被せられて、そのままエンディング・クレジットへと繋がって行ったのであれば、それは既に「火曜サスペンス劇場」で使われていた方式ではないだろうか。確かに、『男女…』で「初めて」用いられた手法だとは書かれていない。しかし、「火曜サスペンス劇場」の放映開始は『男女…』より5年も早い1981年だし、当時使われていたのは、私の記憶にさえ残っている程の大ヒット曲「聖母たちのララバイ」であったので、ちょっと気になったのである。

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2007年2月22日 (木)

『はりねずみのおくりもの』ならぬ『とんがとぴんがのぷれぜんと』

 昨年の12月15日に〔クリスマスが近づくと思い出す一番古い記憶の中の絵本〕と題して書いた、「はりねずみの夫婦がサンタクロースへの贈り物を一年間掛けて拵える話」の詳細が判明した。題名は『とんがとぴんがのぷれぜんと』、著者は西内みなみ氏(作)と司修氏(絵)、掲載誌は福音館書店の「こどものとも」153号である。
 本当に久し振りに「すっきりした気分」を味わうことが出来たのだが、それと同時に、自らの記憶の「良え加減さ」を改めて思い知る結果となってしまい……現在も多少、様々な意味から来る複雑な思いに苛まれている。
 まず、幾ら幼児期の記憶であるとは言え、題名が全く違っていた。また、はりねずみの夫婦に名前があることも忘れ果てていた。更に、4歳の時ではなく5歳の時の記憶であった……。
 しかし、何より衝撃が大きかったのは、以前「こどものとも」をかなり詳しく調べた時に、この作品を完全に見落としていたことである。同じ年度に発行された同誌の掲載作品には、題名も内容もよく覚えているものが結構あったにも関わらず、この作品だけは「無い」と思い込んでしまっていたのである。恐らく、記憶の最も確かな「はりねずみ」というキーワードに縛られ過ぎていた為であろうとは思われるのだが、それでも、前回の文中で、「これまでに調べた限りでは「こどものとも」ではなかったことだけは確かなようである」――などと偉そうに書いてしまった手前、これほど気恥ずかしいことはない。
  ともあれ、やっと正しい書誌情報が確認出来たので、願わくは単行本化を実現させたい……と、早速「復刊ドットコム」に復刊リクエストを出した。どの程度の賛同票が得られるかは判らないが、何と言っても一年掛けてプレゼントの靴下一足を作り上げた彼らのことであるから、必ずや頑張り抜いてくれるものと期待している。復刊リクエストが掲載されているページは、http://www.fukkan.com/fk/VoteDetail?no=37858 である。
 因みに、一昨年の12月に、福音館書店から『おじいさんがかぶをうえました:月刊絵本「こどものとも」50年の歩み』という本が出版されていたことも判った。ジャンル別・作家別の記事の他に、「803作品すべての表紙とあらすじ」が掲載されているとのこと。これは明日にでも、出入りの書店さんに取り寄せをお願いするつもりである。

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2007年2月 5日 (月)

敬語の「御」の使い方に対して思うこと

 先日、たまたま手にした『暮らしの中の敬語』(伊吹一著/笠間書院刊/1984)の中で、「これだけは知っておきたい敬語の常識」という章の「敬語「御」のスマートな使い方」という節を特に興味深く読んだ。例えば「お」と「ご」の付き方の違いとして、「お」は訓読み・和語的・女性的な語に付き、「ご」は音読み・漢語的・男性的な語に付く――といった明確な説明など、「あ、成程」と思わず納得出来てしまった。
 しかし、この節の中の「省いた方がよい「お」「ご」」という項で、用い方の規準に照らして付けるべきではないものとして挙げておられる64例のうち、私の感覚では「ん? 何でこれがあかんのやろ?」と思われてしまったものが24例あった。
「お紅茶」「おデート」「ご芳名」「お林檎」「お献立」「お干菓子」「お煎餅」「お給食」「お夕食」「お匙」「お遊戯」「お遊び」「お外」「お時計」「お熱」「お歌」「お机」「お椅子」「お年始」「お手軽」「お気軽」「お玄関」「お納戸」「お茶の間」――である。
 これら以外に挙げられている「おコーヒー」だの「おケーキ」だのと言った、何でも「御」さえ付ければ文句あるまい……とでも言いたげな使い方は、小学校の国語の時間に習った時から確かに変だと感じていたから、別段引っ掛かりはしなかったのだが、これら24例に関しては、普段から大して疑いも持たずに使っているだけに、妙に気になってしまったのである。このうち「お給食」「お匙」「お遊戯」「お外」「お時計」「お熱」「お机」等は、日常的に保育関連の資料に多く接しているせいもあろうかと思う。しかし、「お煎餅」は矢張り、お団子やお餅などと共に「お」を付けて親しみを込めて呼びたいし、「お紅茶」「お夕食」などは、以前にTVドラマで吉永小百合さんが実に自然で素敵な響きで使っておられて「良いなぁ」と感じたし、「ご芳名」や「お茶の間」は既に一般社会に定着しているように思うし、第一、うちのお気楽ひつじなどは「今日はクレア☆とおデートなんだ~☆」何て連日のようにふわふわ浮かれ飛んでいるし……。
 言語・文芸の専門家であり俳人でもあられる著者が、はっきり「行き過ぎの例」としておられるのに、そこまで「行き過ぎ」のようには感じられない私の言語感覚は、まだまだ鈍感に過ぎるのだろうか。無論、幾つかの使用例に関しては、この本が書かれてから過ぎた二十余年の歳月の間に、とうに市民権が与えられているのかも知れないのだが……。

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2006年12月15日 (金)

クリスマスが近づくと思い出す一番古い記憶の中の絵本

 その絵本は、幼稚園の年少組の時に貰った総合絵本の一冊である。ぼんやりと覚えている絵柄は、色調はやや暗めであるが、柔らかで温かみのあるパステル画のような印象のものであったように思う。題名は確か『はりねずみのおくりもの』であったと記憶しているのだが、余り自信はない。何しろ4歳の時の記憶である。無論、作者も覚えていないし、誌名は「キンダーブック」であったようにも思うのだが、これも定かではない。ただ、これまでに調べた限りでは「こどものとも」ではなかったことだけは確かなようである。
 内容は、ごく簡単に言うならば「はりねずみの夫婦がサンタクロースへの贈り物を一年間掛けて拵える話」である。思い出せる限りの記憶を掻き集められるだけ掻き集めてまとめてみると……サンタクロースの家に住むはりねずみの夫婦は、ある時、主のサンタクロースは贈り物を配るばかりでまだ一度も貰ったことがないこと、帽子から靴まで何もかもきちんと立派なのに、靴下だけは随分古くて穴が空いていることに気づき、クリスマスに靴下をプレゼントしようと思い立つ。そうして、「まきばのまーさん」の所で三ヶ月働いてお礼に羊毛を貰い、「つむぎやのつーさん」の所で三ヶ月働いてお礼に羊毛を紡いで毛糸にして貰い、「そめものやのそーさん」の所で三ヶ月働いてお礼に毛糸を赤く染めて貰う。最後に「あみものやのあーさん」の所で毛糸を編んで貰う為に働かせて貰おうとするが、人手は足りているからと雇って貰えず、意気消沈して戻る途中、発明家のおじいさんに出会い、その発明品の毛糸編み機で見事に靴下を編んで貰うことが出来て、プレゼントは無事クリスマスに間に合う……というものであった。初めてプレゼントを貰ったサンタクロースの喜びの声は、確か「うほう!」であったと思う。
 ほか、この作品は特に、担任の先生が組全員の前で読み聞かせをして下さった時の印象が強い。発明家のおじいさんが、何を発明しても使ってくれる人がなく「あーあ、○○を発明して△年、△△を発明して□□年……」と一人で愚痴っているのをはりねずみたちが耳にする場面で、おじいさんの愚痴に「おしめあらいき」が登場した途端に、皆が一斉に声を上げて笑ったことを妙によく覚えている。
 出来ればもう一度読んでみたいし、今の子どもたちにも是非読んで貰いたい作品なのだが……どなたか、正確な書誌情報をご存じないだろうか?

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2005年10月23日 (日)

3Dアート顛末記 ~12年目の挑戦とその結果~

 今を去ること12年前、私は所謂「3Dアート」と呼ばれる絵を「見る」ことがどうしても出来なかった。これは、TV画面の砂嵐に似た絵や単純な連続模様のようなイラストを、わざと焦点を合わさないようにして見つめ続けると、やがてその画面の中から立体的な絵が浮かび上がって見えて来るもので、当時非常に流行して広告ポスターにまで使われていたことを覚えている。図書館にも『マジック・アイ・コレクション』(ワニブックス刊)などが納品され、試しに皆で回し見をしてみたのだが、他の館員は全て「見る」ことが出来たのに、私一人はどんなに頑張っても駄目。本の向こう側に焦点を合わせるようにしてみても、規準になる2つの黒点が3つに見えるようになるまで練習してみても、一向に何も見えて来ない。借り出して父にも試して貰ったが、矢張り駄目であった。「何かを見ようとすると無意識に目が対象に焦点を結ぼうとしてしまう」のが原因ではないかと言うのが父の見解で、要するに我家の人間は見ること一つにしてもどうにも融通の利かない性分らしい……と言う結論に達し、私はとうとう「見る」ことを諦めた。
 以来12年間、私は「3Dアートを見られない人間」のまま過ごして来た訳なのだが、古巣に戻って久し振りに懐かしい本を手にし、もう一度だけ試してみようと『マジック・アイ・コレクション』を借りて帰った。片端から見て行けばどれか一つぐらいは「見える」絵もあるだろうと、就寝前の「眠た目」で一頁ずつ繰って行ったが……甘かった。どの絵もなかなか思うように浮かんで来ず、目が疲れるばかりである。36・37頁まで来ると、色彩豊かな油彩の連続模様を思わせる絵が2枚。36頁は駄目で、早々に諦めて37頁の方を見始めると……不意に、ほわ~ん、と何やら立体的に浮かび上がって来た形がある。おっ!! と思わず興奮を覚えつつ、更に目を「焦点を合わせずに凝らし」続けると……そこには、立派な角を携えた極彩色の立体ひつじが一匹……。瞬間「あんたなぁっ!!」と叫んでしまったのは言うまでもない。他にもう一枚、青いばらの蕾が連続して並んでいる絵から、立体的な「星」の形を見ることも出来たのだが――これを聞いた知人曰く「3Dが見えるようになったと言うより、そのお題目だから見えた気がしてなりませんが…(汗)」。果たして私は、12年目にして3Dアート・コンプレックスを見事克服出来たことに……なるのだろうか?

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