2007年3月 8日 (木)

「果敢ない(かかんない)」という奇妙な振り仮名のこと・再続

 昨日、アルバムとシングルCDの情報を教えてくれた知人は、「最初、何か変な感じがするけど、こういう読み方もあるのかな? 位に考えただけで、そのまま来ていました。曲そのものも、歌っている声優さんも、とても好きなので、これからもカラオケなどで歌いたいと思いますが、その時、この通りに読んで歌う方が良いのか、それとも正しい読みに直して歌う方が良いのか、悩んでいます」――と言う。
 私も国語の専門家ではないし、まだ『新明解国語辞典』と『広辞苑』と『国語大辞典』(第4巻・第16巻)の三つでしか調べていないし、何よりも、詩人・作詞家といった職業の方々は、表現の為には「敢えてこう読ませる」「こういう新しい読みを創る」といったことを折に触れて行うものであるから、この場合にも、もし、作詞者側が意図的にそうした含みを持たせた上で、あのようなルビを打ち、そのように歌うよう指示しておられたのであったならば、一概に「明らかな間違い」であると断言することまでは出来ないかも知れない。しかし、ごく普通の一般的な国語感覚で考えるならば、あれは矢張り、素直に「はかない」と読まれるべきではないだろうか……と思われる。
 仮に、「自分の支持する歌手がそう歌っているのだから、断固としてその読み方が正しいという立場を貫き、歌っている通りに歌うべき」――などという考え方が存在するのであれば、それは、支持している相手に対して、返って失礼に当たる行為ではないだろうか。もしも、当事者らが既に自ら間違いに気づき、痛々しいまでに反省し、自らを激しく責め続け、出来ることなら記憶の彼方に葬り去りたいとまで、密かに思い詰めているような場合であれば、頑なにそのままの形で延々と歌い続けて行くことは、贔屓の引き倒しどころの騒ぎではなく、逆にその間違いを嘲笑い責め苛んで、相手の傷を抉り続けることになるのではないだろうか。むしろ、聞き手(ファン)の立場として、思わぬミスはミスとして認め、滅多にない事故として理解し、将来に向かっては「正しい読み」で歌い継いで行く方が、送り手(歌手・スタッフ・作詞者)に対する、より確かで暖かな応援・激励に繋がるのではないかと思う。
 少なくとも、ルビにミスのあった塩沢さんの曲を口ずさむ時、私は今も、必ず正しい読み方で歌うようにしている。塩沢さんもきっと、そうした形で歌い継がれて行くことを望んでおられる筈だと思うからである。

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2007年3月 7日 (水)

「果敢ない(かかんない)」という奇妙な振り仮名のこと・続々

 先月25日にこの文の「続」を書いて以来、どうしようもなく「元々の歌詞のルビ」が気になってならず、何とかフルコーラスが収録されている当時のCDが手に入らないだろうか……と、勤め帰りに中古CD店などを相当探してみたのだが、残念ながら空振りばかりであった。何せ、初めてこの曲を聞いたのでさえ、もう九年近く前のことになるのである。
 所が今日、また別の知人から「雑記を読んで……」とメールがあり、この件の真相を初めて知って……正直、暗澹たる思いに沈み込んでいる。
 それによると、件の曲のフルコーラスは、知人が所有しているアルバム(2000年11月発売)とシングルCD(2003年6月発売)に収録されており、シングルCDの方はアレンジの違う新録だそうなのだが、いずれもブックレットの歌詞にはルビがなく、そうして、実際の曲では――明らかに「かかんない」と、歌われているそうなのである……。
 私が初めてこの曲の一番をCDで聞いたのが1998年の6月、カラオケで初めて歌って二番の「奇妙な振り仮名」に気づいたのが2003年の4月――となると、その2ヶ月後に新録のシングルCDが発売された時点では、まだ、その読みのままで通っていたことになる。
 現在は、どうなのだろうか。作詞者の方は、スタッフの方々は、そして何より、実際にこの曲を歌っておられた四人の声優さんらは、この3年8ヶ月余りの間に、既に気づいておられるのだろうか。もし、気づいておられるなら……どれほど取り返しのつかない深い傷を心に負い、どんなに居たたまれない思いに苛まれ続けておられることだろうか……。
 作品自体は、余りに残虐な描写や救いの無い設定が多く、決して好きな部類のものではなかった。塩沢さんが出ておられる挿話が無ければ、多分、手に取ることもなく、題名も知らないままで過ごしていたに違いない。しかし、この曲は、歌詞も旋律も歌唱も、結構印象が良くて気に入っていたものだけに、もう、悔しいとも悲しいとも辛いともつかないような……こちらまで身の置き所の無いような気持ちで一杯になってしまう。一度、フルコーラスを聞いてみたい、とは思っていたが、この真相を知ってしまった上ではもう、とてもではないが、その勇気は無い。
 カラオケ会社の方には非常に申し訳ないのだが、本当に身勝手ではあるけれども、あれは「カラオケ映像制作時の歌詞入力ミス」であって欲しかった……そんな風に思う。

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2007年2月25日 (日)

「果敢ない(かかんない)」という奇妙な振り仮名のこと・続

 2月8日に書いたこの文に関して、知人から「どうして一番だけしか知らないのか?」「元々の歌詞のルビは確認してみたのか?」という素朴な疑問メールを貰った。
 私が初めてこの曲を聞いたのは、1998年の6月に発売されたオーディオドラマCDである。この作品のCDは、既にそれ以前から何枚か発売され、アニメにもなっていたらしいが、私が持っているのは塩沢さんが出演しておられた分のCD3枚だけで、しかも、この曲が入っているのはその最初の1枚で、それがTVサイズと言うか、要するに「一番だけ」の収録であり、当時は「ドラマさえ聞ければ満足」であった為、結果として一番だけしか覚えられず、また、カラオケから帰って初めて確認したブックレットの歌詞は、二番まで掲載されていたものの該当箇所にルビが振られていなかった為、読みを確認することが出来なかったのである。
 この疑問を戴いて、急に「元々の歌詞のルビ」が気になり始めて来た。しかし……果たして元々の歌詞の時点で、ルビに間違いがあったのだろうか。確かに、塩沢さんの歌にさえ、発売されるまで誰もルビのミスに気づかなかった、という例はあるが、その箇所は古語でもあり、また、常々からこうしたことには極めて厳しい姿勢を持っておられた方でもあったから、当時、我々ファンは「事故」だと理解したのであるが……。
 ただ、この曲の歌詞は明解な現代の言葉で綴られている。しかも、この曲を歌っておられるのは、四人の声優さんである。声優、即ち「言葉」や「発音」や「読み」に関しては、普段から殊更に厳しく鋭敏な感覚を持って接しておられる職業の方々が、複数で歌っておられる訳である。そうなると余計に、打ち合わせの時点や収録の時点で誰一人気づかないまま、発売にまで至ってしまうとは考えにくい。
 矢張り、あの字幕のルビは、カラオケの映像が制作された際の歌詞の入力ミスで、それがチェック漏れのまま配信されてしまい、ある意味マイナーな曲であることから誰からも指摘が無く、修正もされないままに来ていたのではないだろうか。
 私が気づいてからさえ既に四年近くが経つから、もうとっくに誰かが指摘して修正されているかも知れないのだが……。ここは、久し振りに一度カラオケに行って確認し、万が一、まだそのままになっていたならば、カラオケ会社に知らせてみた方が良いのだろうか。結構気に入っている曲だけに、どうにも気になって仕方がない。

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2007年2月 8日 (木)

「果敢ない(かかんない)」という奇妙な振り仮名のこと

 今朝、出勤途中の電車内で何の脈絡もなく不意っと思い出し、一日中気になって仕方なかったことがある。それは、もう四年近くも前に、とある通信カラオケのモニター画面で目にした、ある曲の歌詞の字幕の一部分の振り仮名である。
 その字幕では、「果敢ない」と書いて「かかんない」とルビを振ってあった。「果敢」は確かに「かかん」と読むが、これを「果敢ない」と書けば「はかない」と読む筈である。
 休憩時間に辞書類書架へ走り、最新の『新明解国語辞典』(三省堂)や『広辞苑』(岩波書店)、更に『国語大辞典』(小学館)の該当巻を引いてみたが、矢張り「はかない」「はかなし」はあっても、「かかんない」という言葉はどこにも見いだせなかった。
 因みに、私が「はかない」という言葉を漢字の形で覚えたのは、あの昭和五十年の七月に、宝塚歌劇花組公演『ベルサイユのばら―アンドレとオスカル―』の主題歌「愛あればこそ」の歌詞を主題歌集で確認した時である。そこでは「果敢く」と書かれていたのだが、何となく「果敢なく」と書いた方がしっくりするように思われ、また「儚く」と書くと微妙に意味あいが異なって来るような気もして、以来、自分が使う時には「果敢なく」と「な」を入れて書くようにし、時には「儚く」と使い分けたりして来ている。なお、当時調べた『新明解…』でも、「はかない」は〔果(敢)無い・儚いなどと書く〕と書かれていたし、『広辞苑』でも「はかなし」は【果無し・果敢無し・果敢し・儚し】とあった。
 話を戻すが、実は当時(今もだが)、私はその曲を一番だけしか知らず、けれど、結構気に入っている曲でもあったし、カラオケに入っていることが珍しい曲でもあったし、二番以降も歌詞が表示されるから何とかなるだろう……と、無謀にも歌い始めてしまった。そうして、問題の「果敢ない」は二番の歌詞の中に出て来たのだが、元々の歌詞がどうなっているかをまず知らないので、その場では「ルビの振り間違い」だと思って「はかない」と歌った。しかし、歌い終わってからも妙に引っ掛かるものがあり、そのうちに確認しよう……と思いながら、ついついそのまま来てしまっていたのである。
 果たして、あれは単なるルビのタイプミスであったのだろうか、それとも「かかんない」という言葉が現実に存在するのだろうか。余計に気になって来てしまった……。

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2006年3月22日 (水)

四季をうたう歌とアニメソングをめぐる雑感

 卒業式の時季になると、「送別」の歌や「謝恩」の歌に加えて「回想」の歌をよく耳にするようになる。代表的なものは芹洋子さんの「四季の歌」だろうか。結婚披露宴でもよく流れている気がする。
 四季をうたう曲、と聞いてまず頭に浮かぶのは、かつて宝塚の舞台で聞いた数々の主題歌・挿入歌であるが、その他に、以前からずっと「この曲は、卒業式にも合いそうだな」と思われてならない曲が二曲ある。堀江美都子さんの「ハロー・グッバイ~終わらないパレード~」と、井上あずみさんの「めぐる季節」である。いずれもアニメソングと呼ばれる部類の曲だが、実は「ハロー…」は歌だけしか知らないし、「めぐる…」は確かイメージソングか何かで、作品中では使われていなかったように記憶している。それでも、今なおこうして、折々に思い起こしては口ずさむことが出来るのは、恐らく、その歌を形づくっている諸要素――極めて耳に心地良い歌唱、歌詞に描かれた風景・内容・主題、そして曲調など――に、私のような音楽不案内人間の身勝手な感性にも、鮮明に訴え掛け印象深く記憶されるだけの確かな「力」が秘められているからであろうと思われる。
 これらに限らず、アニメ作品の主題歌・挿入歌の中には、TV放映中・劇場公開中のみの命で終わらせてしまうには、余りに惜しいと思われる名曲が沢山ある。こういう曲こそ、もっと教育の場などで広く認められ、多くの子どもたちに歌われ、沢山の人々に長く愛されて貰いたい――と、切望されてならない曲が無数にある。しかし、一般的には、宮崎駿作品などごく一部を除いては、まだまだ市民権を得ていない部分が多いように思う。
 アニメソングというものは、童謡の範疇に入るという訳でもなく、歌謡曲や流行歌といった分野に属するでもなく、ある意味では映画やドラマや舞台の主題歌に近い雰囲気は持っているものの、それ自体が独立したジャンルとして存在しているように思われる。そうして、今でもまだ、子ども向け・マニア向けといった概念で一括りにされて、どこか一段格下のような扱いを受けているような印象がある。何とも勿体ないことだと思う。
 前述の二曲に関しては、特にこの時季、まだお聞きになられたことがない方々に是非一度聞いてみて戴き、率直な感想を伺ってみたいと思われてならない。本当に「良い曲」なのである。

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2005年3月31日 (木)

再び、明るい話題とは、言えないかも知れないが……・続

 一時期、映画界でもこの手の、多少安易とも思えるリアリズムが「役柄」の上で試みられたことがある。橋本幸治監督が『ゴジラ』のニュースキャスター役に森本毅郎アナウンサーを起用した時は、確かに面白いと思った。NHKニュースで毎日見慣れた顔と声とでレポートされると、ゴジラ出現のニュース場面が何だか妙な現実味を帯びて感じられたからである。しかし、東陽一監督が『ザ・レイプ』の弁護人や検事の役に現役の弁護士を起用した時は、少々首を傾げてしまった。法廷の場面に「本職」が立つのであるから、それまでの劇映画にはなかった種類の迫力が画面に溢れるのは確かなのだが、演技者集団の中に演技ではなく地のままで専門職役を担当している人がいることの違和感、とでも呼べそうな雰囲気の方がむしろ勝っているようで、余り好きになれなかったのを覚えている。
 阿久さんのコラムの中で、些か疑問を呈したい箇所が一つだけあった。旧声優陣が一度も実年齢を意識させなかったことに感動し、「もしも途中で声優の年齢を思いうかべることがあったとしたなら、たぶん、その時点で、絵と声による魔法は解けていた筈である」との一文である。確かに、一般にはそう感じられる向きもあるのかも知れない。けれど、例え声優さんの実年齢や容姿を知っていてもなお、その演じる人物たちの上に演技者本人の顔は決して重ならず、為に作品世界からいきなり現実に引き戻されるような不安もない――というのが、私の実感であるし、それが顔出しの俳優さんと最も異なる、本職の声優さんならではの魅力の一つではないかと考える。
 かつて『となりのトトロ』と『火垂るの墓』が同時上映された時、四歳のメイを演じる坂本千夏さんを「流石だなぁ……」とは感じても、決して「魔法」が解けることはなかったが、同じ四歳の節子を演じる白石綾乃ちゃんには「五歳の子が、よくここまで一生懸命に台詞を言いこなしているなぁ」と、どうしても幼い演技者に感心する現実的な思いの方が強くなり、作品世界に100%のめり込めないもどかしさを覚えてしまったことを思い出す。
 経験豊かな声優陣が年齢差を超えて巧みに演じることよりも、現役の高校生が高校生役を地のままこなすことの方が、より歓迎され持て囃される時代が、もしも本当に来てしまったら……声優界は、随分と魅力の乏しいものに成り下がってしまうような気がする。

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2005年3月30日 (水)

再び、明るい話題とは、言えないかも知れないが……

 26日付産経新聞朝刊の連載コラムで、阿久悠さんが『ドラえもん』声優陣の世代交替による若返りについて触れ、それはそれで良いが「それが進むと、やがて、キャラクターの年齢に近いことが条件とされてくるかもしれない」――と書いておられた。ゲームに音声が付き始めた頃から、嫌に加速度をつけて進み始めた声優界の世代交替に対して、ぼんやりと抱いていた不安感の、その一因を言い当てて貰えたような気がする。
 更に「日本の文化の薄っぺらさは、たとえば、十八歳が十八歳の気持ちを歌にして、十八歳が歌い、十八歳が聴いて共感するということである」「そういう社会で、たとえば七十歳のたてかべ和也氏が小学生のジャイアンをやって正体がバレることなく、共感を得ていたのは、数少ない安心材料だったのである」とも書いておられる。全く同感である。
 演技者が「演じる」ことから生まれて来る幻惑の力は、一種の魔法である。声のみで120%全てを表現する声優さんの場合、その魔法の力は更に飛躍的に増大する。十台の少年の役を六十台の女性が演じても何の違和感もないばかりか、更なる魅力に彩られた素敵なキャラクターが誕生して来る。そこにファンは魅了される。13歳でトリトンを演じた塩屋翼さんや、14歳で飛雄馬を演じた古谷徹さんなどはむしろ例外で、実年齢を感じさせずに年齢差や性差のあるキャラクターを演じることは、声優さんにとってはごく普通のことである。幾ら名女優である森光子さんでも、幼児期や少女期の林芙美子まで演じるのは難しいだろうが、声優さんたちは常に、それを当たり前にやってのけるのである。
 そうした特色や約束事を素直に受け入れて楽しむことの出来る、一種の余裕のようなものを、受け手の誰もが暗黙のうちに持った上で開花したのが、かつての声優文化であったような気がする。加えて、声というものは滅多に年を取らない。それに演技の力が加わり、独特の魅力に溢れた不思議な世界が醸し出される――その世界に酔いしれる楽しみにもまた、何にも代え難い極めて特別なものがあるのである。
 実写作品であれば、三歳の大五郎役に三歳の小林翼くんを配することには確かに意味があるだろうが、声演にまでも、何よりまず「等身大」であることを優先する傾向が出て来るとしたら……それは、リアリズムの追求と言うだけでは済まない問題を孕んで来そうな気がしてならない。

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2005年3月 7日 (月)

今更ながら……『ルパン三世』のキャスト変更に思うこと・続

 それにしても、私が最も驚いたのは、この件で原作者が山田さんに「怒鳴られた」という所である。そう言えば、『風魔…』公開よりもずっと以前に「山田さんらは『ルパン三世』に関しては "絵が完全に出来上がっていなければ絶対にアフレコに応じない" という信条を通しておられるそうだ」という話を、別の知人から聞いたことがある。今思えばこれは、山田さんらがこの作品や登場人物に対して、どれだけ深い愛着と熱い意気込みとを持って仕事に臨んでおられたか、という証拠でもあろう。また、原作者や監督といった諸氏は、我々の想像以上に、声優さんらに対して強い立場にあるらしいし、事実、それを証明するような幾つかの事件も耳にしている。原作者が主演声優に「怒鳴られ」るというのは、このアニメがそれだけ「余程に特別」な作品であることを物語っていると言えるだろう。にも関わらず、そうした方々の頭越しに企画を進め、固定ファンの心理や価値観を読み抜くことが出来ず、結果、『風魔…』をあのようにしてしまったスタッフ諸氏の責任は、決して軽くはない筈である。
 そうして、改めて、新キャストの方々がお気の毒に思われてならない。ファンの評価だの興業成績だのと言う以前に、そもそもが「大先輩である山田さんらに話の通っていないお仕事」であったとは……。知人は重ねて「矢張り一部スタッフの暴走やね。当時から、私はおかしいと思ってた。スタッフのコメントが両極端(力入り過ぎな人と、淡々とした人と)やったから。それ以前の作品は、役者や制作側との一体感が有った。だから新キャストは、旧配役に了解云々以前に、さぞや苦労しはったやろうと思ってた。今や公然の事実だし、皆さん大人やから私らが思う程、引きずってはらへんと思うけどね」と言っていたが、何とも複雑な気分である。
 作品そのものの公平な評価、出演者の仕事の純粋な評価というものは、こうした「余程に特別」な作品の場合、特に難しいものになってしまうような気がする。いつも思うのだが、もしも『カリオストロの城』が新キャストで、『風魔一族の陰謀』が旧キャストで公開されていた場合、興行成績やファン評価は一体、どのような数字となって表われたのだろうか。将来、何の裏事情も知らない未来のファンが、ごく普通のシリーズ物として作品自体を見比べた時、この『風魔…』は、そして新キャストは、一体どのように評されるのだろう……。

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2005年3月 6日 (日)

今更ながら……『ルパン三世』のキャスト変更に思うこと

 11月22日付で書いた『ドラえもん』の主要キャスト一新の話題に絡んで、その後、『ルパン三世 風魔一族の陰謀』制作時の新キャストに絡む(私にとっての)新情報を、知人がメールで教えてくれた。
「(前略)尚、栗田ルパンは、生前の山田さんが「俺が死んだら、君が演れ」と云われてたそうな。確か『くたばれノストラダムス』封切り直前の特番で、映画のプロデューサーが話してたの。山田さんが司会してた「お笑いスター誕生」で二人は知り合い、以来山田さんが栗田さんを可愛がっていたそう。で、役を譲る話が出てたらしい。それとは別に、三年位前のNHKのトーク番組で原作のモンキーパンチ氏が、『風魔…』の配役発表後、山田さんに「何で(配役変更を)許可したんだ!!」って、怒鳴られた……と云う話をしてらした。どうやら『風魔…』のスタッフは、モンキーパンチ氏には、山田さんに了解を取る様に云われたのに、無視したらしいんだわ。まさか、モンキーパンチ氏も、山田さんに話を通さないとは思われなかったらしい。山田さん達は、制作発表会見辺り迄、蚊帳の外だった訳。モンキー氏は、事情を説明された後、自分から声を掛けなかった事を悔やんだ……って。ルパンは山田さんのライフワークになっていたのに……って。『風魔…』の役者さん方も、山田さん方の了解を受けての事って思われた筈。何にしても、後味の悪い作品になり、関わった新旧の皆さんが気の毒。…以上、私が十数年掛かりで知り得た情報です。ともかく原作者も、世間もルパンは山田さんと思ってたのを、ギャラを惜しんで失敗した事実だけが残った訳だ(後略)」
 正直言って、驚いた。『風魔…』の次回作以降、再び配役が旧キャストに戻されたことに臍を曲げ、以来『ルパン三世』絡みの番組や話題や新作を一切無視し続けて来た私は、『風魔…』の公開から実に17年以上を経て、漸くこの情報を知ったのであるが、それにしても、ここまで複雑で信じ難い裏事情があろうとは想像もしていなかった。単純な私は「 "新しい時代の新しい『ルパン』を新しいファンの為に作りたい" という監督の強い意向で正式に交替した新キャストを、世間一般が頑なに受け入れなかった」と受け取っていたのだが、しかし……様々な意味に於いて、何ともひどい話である。

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2004年11月22日 (月)

明るい話題とは、言えないかも知れないが……

 連日、例の事件の報道ばかりで滅入っている所へ、また「ある意味ショック」なニュースである。『ドラえもん』の主要声優陣が世代交替すると言う。大山さんらは以前から「25年演ったら(次代に)託そう」と話し合っておられたそうだが、この手の事件は頭で理解出来ても心では何とも受け入れ難い私である。声優界に魅かれた大きな理由の一つが「世代交替の緩やかさ」であったから、尚更に驚きと衝撃は大きい。
 長寿番組は特にそうであろうが、『サザエさん』のように、ご本人の事情やご逝去などで少しずつ声の顔ぶれが入れ替わって行くのは、辛いけれどもまだ理解も納得も出来て、割合自然に受け入れることが出来る(無論、塩沢さんの時は別であったが)。しかし、今回は主要声優陣全員がまだお元気なのである。思わず『ルパン三世 風魔一族の陰謀』の騒ぎを思い出してしまった。あの時は、山田さんらが世代交替を宣言された訳でもなく、新キャストの皆さんは相当に厳しい重圧を乗り越えて役作りに挑まれたが、旧キャストのイメージ先行は制作側の想像以上であったらしく、作品そのものは(脚本の出来も今一つで)決して成功したとは言えず、結局、次回作からはキャストが元に戻された。にも関わらず、いざ山田さんが亡くなられてみると、本職の声優さんではない方が新ルパン役に起用され、ファンはそちらを受け入れたのであるから、残酷な話である。尤も、リメイク時の新キャストもベテラン揃いであった『ゲゲゲの鬼太郎』などは、野沢版・戸田版・松岡版のいずれもが、それぞれに成功していたと思われるが。
 『ドラえもん』は視聴者層の年齢が低いから、大掛かりな世代交替を強行しても、ルパンなどよりは柔軟に受け入れて貰える筈だという計算も、局側にはあるのだろうか。今後もこの番組を続けて行こうと思えば、大山さんら出演陣の理解と希望があり、25周年で切りが良いという口実も立つこの機会に、ということなのかも知れない。世代交替と一口に言っても、この作品の場合は、単に「そこそこの演技が出来てイメージの似た安く使える若手」を集めたのでは絶対に無理であろうから、かなり慎重な選考になるのだろうが……。
 いずれにしても、かなりの衝撃事ではある。けれど、ここ数日の暗い辛いニュースを思うと、まだ、少しはましな話題だと受け取るべきなのだろうか?
 少なくとも、「未来へ続く話題」ではあるのだけれども……。

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2004年10月16日 (土)

日曜日19:45の「声をめぐる大ボケ」+α

 八月末の日曜日。夕食後、常の習慣でぼーっと横になってTVのNHKニュースを「聞いて」いた所、そのままうとうと……気がつくとニュースは終わって、何か犯罪ドラマっぽい番組が始まっていた。どうやらクリスティの『ABC殺人事件』らしい。何でこんな時間帯に外国ドラマを……と思いつつ、それにしても知らない声が多いなー、ちょっと不慣れな人がいるなー、ん? このポワロの声は聞き覚えが……等と勝手なことを考えながら、更にぼーっと聞いているうち、耳馴れた声優さんの声が出たので画面も見てみたくなり、やおら起き上がると……TVに映っていたのは、想像していた外ドラではなく、正真正銘の「アニメ」であった……。
 これだけならば、慌てモンが半分寝ぼけた状態でやらかした「一人大ボケ」に過ぎないのだが、問題はそれからである。番組がアニメだと判るなり、それまで「聞いた覚えがある」と感じていたポワロの声が、さて誰なのか見当つかなくなってしまったのである。
 この手のもどかしさには、如何とも形容し難いものがある。必死に耳を傾け、その声の主を記憶の中から探り始める。私流に言うと、それは「知らないけれど、知っている声」――つまり、声優さんではなく顔出しの俳優さんで、しかも「キャラクターの顔に声演者の顔が重ならない」部類の、極めて演技の巧みな方の声――であった。そうして、乏しい芸能知識を総動員して考えた末、それは「里見浩太朗さん」の声に違いないと思い至った。
 しかし、どうにも自信が持てない。あのベテラン時代劇スターを、幾ら主役とは言えアニメの吹替に起用するような贅沢が、果たして現実に可能なのだろうか?
 だが十数分後、私がエンディング・クレジットの冒頭に認めたのは、紛れもない里見さんのお名前であった……。

 さて、六日前の日曜日。夕食後、また似たような状況で全く同じ出来事と遭遇した。但し、今度は前のような先入観念に惑わされず、同じアニメ(『名探偵ポワロとマープル』)のミス・マープルの声を「あ、八千草薫さん!」と即座に断定出来たのであるが……。実は、これには全く別な「種」もあった。八千草さんは、29年前にNHKで放映された劇場中継『ベルサイユのばら―アンドレとオスカル―』で「案内役」を担当されており、これを録音したテープを伸びるほど聞き倒した私の耳には、それは既に「馴染み切った声」となっていたのである……。

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