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2009年10月31日 (土)

余りにお手軽過ぎる、今年のうちの館のハロウィンのこと

 万聖節である。
 昨今は、お月見とクリスマスの中間に存在する貴重な行事として、お菓子業界を筆頭に結構PRされ、随分と知名度もアップして来ているが、まだまだピンと来ない部分もある。
 後にも先にもただ一度、私が小さい子たちの「Trick or Treat!!」の声を耳にしたのは、カトリック系の学校の図書館に派遣されていた時であった。中学部・高等部共通の図書館で、10月31日だということもすっかり忘れ果てて入力作業をしていた所、午後の3時過ぎくらいであったか、思い思いに仮装を凝らした小学部の子どもたちが、実に楽しげに「Trick or Treat!!」と、やって来た。館の責任者でいらっしゃった方が、はっとして「ごめん!すっかり忘れてた。お菓子、ご用意してないの。ごめんね。また来年ね」と優しく謝られると、一団は別に「悪戯」もせずに去って行った。しまったなぁ。例え飴の一個ずつでも用意しておけば良かったなぁ……と、内心反省していると、館の方々も同じことを口にして残念がっておられた。宗教を抜きにしても、行事を口実に、大人と子どもの間で「ちょっとした非日常のコミュニケーション」を図れる良い機会であったかも知れないのに……。翌年の作業は短大部の図書館に移ったので、流石に小学部の子らはやって来なかった。
 さて、宗教とも何ら関わりないうちの館のハロウィンはと言えば……。例年は、利用者に季節感を感じて貰うべく、半月ほど前から寄せ集めのハロウィン小物(魔女姿のペコちゃん人形とか、かぼちゃ型の飴の容器とか)をカウンターに飾る程度なのであるが、今年はそれに加えて、特に館員全員に「キャンディの詰め合わせ」を振る舞った――と言えば聞こえは良いが、何のことはない。給湯室に余り返る「飴ちゃん」群を掻き集め、これを館員の頭数で割ってジッパー付きの小さいポリ袋に詰め、ハロウィン柄のシールを切り分けて中に入れ、「一人一個ノルマ!!」と、半ば押しつけ気味に配り歩いたのである。
 元はと言えば、皆が「ミルキーのメロン味が出ました!」「リラックマの喉飴があったよ~」「北海道のハッカ飴買って来た☆」――等と、袋ごと給湯室に置いては「自由に食べてね~」を繰り返すもので、やがて――賞味期限直前の飴が相当量、貯まることになるのを、何とか食べられるうちに……と考えた、苦肉の処理策である。「そんなことに利用するな~」と、西洋お化けらに怒られそうな所業であった……。

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2009年10月27日 (火)

舞台鑑賞時の声援に関する私感など

 先日、久し振りにミュージカルの舞台を観る機会を得た。実に明るくテンポよく展開する翻訳ミュージカルで、作品そのものについては、多少気になる点もあったものの、個人的採点では100点満点で十二分に120点と、非常に満足度の高い舞台であった。
 ただ、作品とは離れた所で非常に衝撃を受けたのは、ちょっと信じ難いばかりの客席の声援――「手拍子」と「スタンディング・オベーション」であった。
 私の拙い観劇経験では、客席全てが思わず立ち上がって喝采してしまうようなことは、まず滅多に起こらなかった。自然発生的なフィナーレの手拍子にしても、宝塚に通っていた8年余りの間で、たった2回遭遇出来ただけである。客席全てが舞台から受けた感激を通して一体になること、更に舞台と客席が一体になること、そうした公演にたまたま行き当たれること――というのは、まず奇跡に近い確率でしか発生しなかったし、滅多に起こらないからこそ、価値があることなのだ……と理解していた。
 今回の作品は仕上がりは、確かに素晴らしかった。しかし、だからと言って、それが「手拍子」や「スタンディング・オベーション」に十分値する、奇跡的な大感動を呼び起こす程のものであったとまでは、正直言い難い。
 ある時期から、宝塚大劇場でも、作品の性質や出来不出来に関わりなく、フィナーレのパレード時に否応なく「手拍子」が起こる悪習(私には悪習に思える)が始まったが、あのような「お手軽一体感体験法」とでも呼べそうなお約束――舞台の仕上がりの良し悪しを抜きにして、とにかく毎公演、必ず「手拍子」や「スタンディング・オベーション」を行う、ということが習慣のようになってしまうと、「滅多にないこと」の価値が格段に下がってしまう気がするし、何より、役者さんやスタッフさんらが変に勘違いしてしまわれないだろうかと心配である。
 あくまで素人の考えではあるが、「手拍子」や「スタンディング・オベーション」の類は「余程のことがない限り、やってはいけないこと」位に理解し、「今こそ、この感動はスタンディングして表現すべき時だ!!」という時にのみ、盛大に行うべきものなのではないだろうか。
 ああしたことが、万が一にも観劇時の「事実上の基準」となってしまったら、本当に奇跡的な大感動に遭遇した時、一体どういう態度で表現すれば良いのだろうか……。
 声援の基本は、まず「拍手」のみで十分であるように思う。

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2009年10月19日 (月)

最近流行の名前の読みについて思うこと・追記3

 外国人名に漢字を当てた名前でも、芸名や筆名などの中には、心ひかれる例が色々とある。「蔵人知有」さん、「春遍雀來」さん、「ラモス瑠偉」さんなどは、そのお名前から、日本や日本語に対する深い理解や親愛の情が自然と窺える気がして、見ただけで心地良い。昨日挙げた「江戸川乱歩」にしても、或いは「益田喜頓」さんなども、本当に「うまく付けてあるなぁ……」と感心してしまう。素直に読めて、記憶にも残りやすく、とても良い命名であると思う。
 反対に、平仮名の名前であっても、読み方を悩んでしまう場合もある。「わかぎゑふ」さんなど、お名前を「ヨウ」と読むのか「エフ」と読むのか、恥ずかしながら随分長い間、秘かに悩み続けていた。旧仮名を含むお名前をどう発音するのが正しいのか、字を見ただけではすぐに判断出来なかったからである。(最近、『小説リトル・チャロ』の発注入力時に確認する機会があり、やっと「エフ」であることを知った)
 所で、一昨年くらいにDVDが納品された原作付きの邦画で、主人公の名前を「月」と書いて「らいと」と読ませているものがあった。これなど、それこそ「知らなければ絶対に正しく読めそうにない名前」である。創作世界の登場人物であるから、それはそれで魅力になるのかも知れないし、礼人や頼登や来斗では駄目な何らかの理由があっての命名でもあろうが、しかし、果たして現実社会に於いても、そうした命名(読ませ方)が通用するものであろうか。
 普通、「月」と言う漢字を見て、まず浮かぶ読み方は、「つき」「げつ」「がつ」などであるだろうし、それが人名である場合には、「“つき”ちゃん、かな?」位に想像するのが自然ではないだろうか。これに外国語を当てて「むーん」「るな」「せれね」「ゆえ」のように読ませるのも相当に無理があるが、増して「らいと」となると――「光」や「明」や「軽」を「らいと」と読ませるよりも、遙かに難しいことになるだろう。そのような読み方を強いられた相手が、果たして、何のストレスも引っ掛かりも抱くことなく、その名前を受け入れることが出来るものだろうか……。
 我が子の名前は、深い愛情や祈りを込めて、考え抜き選び抜いて当然であると思うが、それに加えて「その名前を一生背負って生きて行く我が子」の姿をじっくりと思い描き、その上で、字も響きも意味あいも素晴らしい「良い名前」を付けることが、矢張り大切なのではないだろうか。

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2009年10月18日 (日)

最近流行の名前の読みについて思うこと・追記2

 昨日、産経新聞の投書欄に、「願いのこもった名前に感謝」と題する文が掲載された。これも、先月23日に掲載された歯科医氏の「難読名前は子供に迷惑では」に対する反論で、歯科医氏のお母様(訓子(のりこ)さん)と同名の元教師の方が、「将来、教師として立派な人間になるように」との願いを込めて名付けて下さったお父様への感謝や、命名者の愛情が凝縮された名前が自らにとっての宝物である……といった思いを綴っておられ、非常に共感出来る内容であった。
 しかし、ここでもまた、5日に掲載された中学生の「馥」さんの「自分の名前に自信をもとう」と同様、恐らくはあの歯科医氏が想像しておられなかったであろう多少の誤解があるのではないか……と感じてしまった。矢張り、医療の現場におられる歯科医氏が、患者さんの個人情報である「難読名前の実例」を特に挙げておられなかったことで、意図とは異なる受け止め方をされてしまったのでは……という気がする。
 多分――あの歯科医氏が仰言りたかった“外国人名に漢字を当てたもの、こじつけめいたもの、「どう考えてもこうは読めないだろう」と首をかしげたくなる読ませ方のもの”の実例を想像するならば、恐らくは「塁主(ルイス)」「美々杏(ビビアン)」「貴亜縫(キアヌ)」「明有里(メアリ)」「飛翔(かける)」「煌輝(ひかる)」「百合子(りりす)」「聖夜(のえる)」「宇宙(こすも)」「月(るな)」「太陽(そる)」「疾風(げいる)」――のような、まるで「どう読むのか当てたら偉い」とでも言われているかのような「難しい読み方を相手に強いる」ものであったのでは……と思われる。
 無論、外国人名に漢字を当てたものでも、例えば森鴎外が子らに名付けた「於菟」「茉莉」「杏奴」「不律」「類」などは、命名者の願いも推し量れ、読む側の立場にも立った良い名前であると思うし、江戸川乱歩という筆名なども、語呂合わせの洒落っ気と同時に、同分野の作品を書いた海外の大先輩に対する、深い敬愛や追想の気分も感じられて「うまく付けたなぁ……」と心地良い。
 しかし、難読名前を批判された歯科医氏や、それに反論された「馥」さん「訓子」さんや、その命名者であられる方々の、「名前」に対する真摯な思いと、我が子に「宇宙(こすも)くん」「月(るな)ちゃん」と名付け、周囲にそう読ませて満足しているその親たちの思いとは、根本的な部分に違いがある気がしてならない。

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2009年10月15日 (木)

横澤英雄先生の訃報に思うこと

 今朝の産経新聞の訃報欄で、横澤英雄先生のご逝去を知った。13日に肺炎で亡くなられたとのこと。79歳でいらしたという。
 最後にお名前を拝見したのは、一昨年くらいであったか、南座のOSKの公演で構成・演出を担当されるという記事を読んだ時であった。長く宝塚から離れてしまっている間に、いつの間にか退団されて、OSKを始めとする他劇団でのお仕事をなさっておられた。
 在団中の横澤先生の作品では、『マイ・ラッキー・チャンス』(昭和53年3月月組)と、『仮面舞踏会』(昭和55年1月月組)を観ている。『マイ・ラッキー・チャンス』は、昨年の3月に亡くなられた渡辺武雄先生の『祭りファンタジー』との二本立てであった。主題歌の「マイ・ラッキー・チャンス」も、挿入歌の「涙の向うに」も、今でもちゃんと歌えるし、「涙の…」は振付まで覚えている。所謂「フィナーレの持ち物」を持たず、全員お揃いの「ワインカラーのギリシャ風ドレス」の飾り紐を巧みに使った振付が異色で新鮮なフィナーレであった。『仮面舞踏会』は柴田侑宏先生の『アンジェリク』との二本立てで、伯母と2度(11時公演と3時公演)、一人で1度、合計3度見た。いずれも、ひどく寒い日であった。ピンクの仮面の場面で、ミスターXの六変化を見せた榛名由梨さんが素晴らしかった。主題歌「花のパートナー」もしっかり覚えている。
 関西テレビの「ザ・タカラヅカ」で劇場中継を見たのは、『ザッツ・ファミリー』(昭和50年11月星組)と、『ハッピー・トゥモロー』(昭和51年10月星組)。殊に『ザッツ・ファミリー』では、メーテルリンクの『青い鳥』を題材にした場面で、核(生まれる前の子どもたち)が生まれた後の世界を夢みて歌う「生まれてみようかな」が印象深かった。海外公演で当時トップの鳳蘭さんが抜け、順みつきさんや浦路夏子さんらが頑張っておられたのを思い出す。
 やっと中古レコードを手に入れて聞くことが出来た『ボン・バランス』(昭和50年3月花組)の実況録音盤では、小川未明の『野ばら』を題材にした安奈淳さんの「野ばら」にいたく感激した。これも、今でも全て歌える。
 横澤先生の作品は、伝統的なレビューの様式にとらわれ過ぎず、かと言って奇抜さ斬新さに走り過ぎた難解な類のものでもなく、私の感覚では、華やかで気品に満ちて適度に新しくて親しみやすい楽しいものばかりであったように思う。
 心からご冥福をお祈りしたい。

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2009年10月12日 (月)

交ぜ書きと「子ども」の表記に関して思うことなど・後

 田辺聖子さんの著書で見た「オトナのすき焼き」は、日本酒をどくどく注いで辛口に仕上げるすき焼きで、「コドモのすき焼き」は、お砂糖たっぷりの日本酒控え目で仕上げる甘口のすき焼きのこと。田辺さんの造語なのだろうが、これなど「オトナ」「コドモ」と片仮名で書いておられる所に、如何にもそれっぽい雰囲気があるように思う。MIQさんの関西ソロ・ライブ“MIQueen”も、「大人のライブ」でも「おとなのライブ」でもなく「オトナのライブ」と銘打ち、統一しておられる所に、ライブの趣旨を伝える意味あいや、主催者氏のこだわりがあるのだろう。
 また「紳士服」「婦人服」「子供服」と書く時には、矢張り漢字で揃えて「子供服」と書きたいし、事務的に「子供向」「子供用」何て書く時にも、漢字の方がしっくり来る感じがする。坪田譲治の『風の中の子供』など、あの時代の日本の子らを取り巻いていた状況や環境までが、題名にある「子供」という漢字からも伝わって来るように思える。
 漢字ばかりだとちょっと厳めしいかなぁ、という感じの時は「子ども」と書きたいし、もっと柔らかい優しい感じにしたい時には「こども」と平仮名で書きたい。例えば「こどもえほんコーナー」のように。
 福音館の総合絵本の「こどものとも」も、見慣れていること以前に「子供の友」でも「コドモのとも」でも「子どものとも」でもいけない「何か」を、そこに感じる。きんさんぎんさんが題字を書かれたNHKの「週刊こどもニュース」もそうである。「週刊子供ニュース」でも「週刊子どもニュース」でも「週刊コドモニュース」でもピンと来ない。「こどもの日」も、そうである。
 気楽な欲ばり者の私は、「子ども」にせよ「大人」にせよ、他の言葉にせよ、時と場合と雰囲気と好みと、あと、前後の字や文との均衡や、座りなどで、色々な書き方を使い分けて楽しみたい気がする。
 ――そんな呑気なことを漠然と考えていたら、今朝の産経新聞の「新国語断想」で、塩原経央氏が「子ども」と「子供」では概念が違う、ということを明瞭に書いておられた。
 氏によると、小児または小児らを指すのが「子供」で、「子ども」は「子+複数を表す接尾語ども」を表す書き方であるとのこと。故に、「子ども」表記は「子供」よりもよほど「子供」を侮った書き方なのである――と。
 またも、目から鱗が複数枚、落ちた思いである……。

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2009年10月11日 (日)

交ぜ書きと「子ども」の表記に関して思うことなど・前

 全国紙の見出しやニュースのテロップなどを見ていて、どうにも気になって仕方ないのは、常用漢字表にない漢字を平仮名に置き換えて表記する、所謂「交ぜ書き」である。「それぐらい、漢字で書いてルビ振ってぇな」と言いたくなるような、どこか間の抜けたような、まどろっこしいような、意味が通じにくいような、ついつい引っ掛かりを覚えてしまう「交ぜ書き言葉」の例は、枚挙に暇がない程である。(但し、産経新聞はルビ処理になっているので読みやすい)
 昔から、基本的に「交ぜ書き」は好きになれない。正確な意味が伝わり切らない気がするし、想像力に訴え掛けて来る力が乏しいように思う。悪くすると、意味を誤解されたり、思いもよらない他の漢字を当てはめて理解されてしまう危険性もあるだろう。斡旋の斡の字が今だに覚えにくいのは、昔から新聞でまぜ書きになっていたのを見慣れ過ぎていたせいだと思う。菊田昇医師の「赤ちゃんあっ旋」事件の記事見出しを、よく目にしたのを覚えている。
 それに対して、「子ども」「子供」「こども」「コドモ」などは、それぞれの書き方自体に意味があるように思われて、どの表記にも引っ掛かりを覚えることはない。
 確か「子供は人と共にある存在だから“子供”」――つまり、まだまだ一人前ではない弱者なのだから、一人前の人間である大人が一緒にいて保護すべき存在であるという意味――であると教えて下さったのは、小学校の時の塾の先生だっただろうか。これまで、そうした意識でいただけに、最近よく耳にする「子を供えるとは、差別的でけしからん」何て、後からこじつけたような意見は好かない。「女に帚を持たせて“婦”だなんて、女性差別」という意見と同列の気がする。
 保育・教育関係の分野を始めとして、書籍の題名に使われている例としては、「子ども」が圧倒的に多く、継いで「こども」、「子供」、「コドモ」の順――という感じである。(出版年度の古い著作物に、結構「子供」という表記のものがよく見られる)
 字面から受ける印象や雰囲気というものは、極めて大切であると思う。人の名前にしても、例えばMIQさんのお名前を例に取るならば、MIQと三玖とみくとミクとMikuとでは、そこから受ける印象が全く違う。
 どちらかと言うならば、私は、同じ言葉であっても、幾つかの書き分けパターンで「使い分け」を楽しみたい方である。コピーライトの素材として見てしまうのかも知れない。

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2009年10月 7日 (水)

ご当地キャラクターの存在条件について思うことなど

 〈るるぶ情報版〉の「城崎 天橋立 北近畿 '10」が納品された。
 最近、この手の旅行書を見る度に、つくづく「ご当地キャラクターは、まず可愛いさが第一条件やなぁ……」と痛感させられること頻りであったが、ここへ来てもう一つ、大切な条件の存在を感じるに至った。
 それは、「城崎泉隊オンセンジャー」なるご当地戦隊キャラクターの存在を知ったことによる。
 バックナンバーを確認してみると、既に '09版の同誌で登場している('08版にはまだ記事がない)から、誕生は昨年頃なのであろうか。「戦隊」が「泉隊」になっている辺りも更に楽しい。
 ふと、遙か昔に『まほろば戦隊コトレンジャー』何ていうのを考えたことがあるのを思い出した。
 今は観光名所として知られる県下の各地に、過去の時代の愛憎を背負って出現する種々の敵キャラに、あらゆる宗教を超越し天の星々に守られた彼らが立ち向かい、救いを与えて行く……。
 色はやっぱり、基本の赤青黄桃緑かなぁ、とか、変身前の名前は、春日、飛鳥、当麻、吉野、初瀬、何て感じが良いかなぁ、とか、適当に空想しては楽しんでいたのだが、しかし、活躍の場が奈良大和路とその周辺に限定されるとなると、巨大メカ戦に突入しても、電線のない平城宮跡で埋蔵物に細心の注意を払いつつドンパチ……では、無理があり過ぎる。何やら随分と地味な戦隊になりそうで、そのままネタが冬眠に入っていた……。(あ、敵ごと異次元の時空に場を移して戦えば良いのか!!)
 と、話を戻して。
 そんなこんなで、何だか急に、城崎に行きたくなって来てしまった。元々、勝沼や高山と並ぶ大好きな土地ではあるのだが、このいきなりの城崎熱は、明らかにオンセンジャーに触発されて出たものである。
 こうした「思わず行きたくなる気持ち」を心地良くかつ強烈に刺激し、重い腰を上げさせて、その土地まで呼び寄せるだけの「力(パワー)」を、どこまで備えているか――という辺りもまた、ご当地キャラクターの重要な存在条件として必要なようである。
 蛇足ながら、来年の遷都祭には、結局3体のキャラクターが揃い踏みすることになったようだが、結束力の点からしても、到底「戦隊」にはなり得まいと、素人目にも容易に想像がついてしまう。長年の観光行政の弱点が見事に体現されている気もして、ある種の感慨を覚えなくもないのだが……。
 とにかく、今、無性に――城崎に行きたい……。

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2009年10月 6日 (火)

NHKに対して抱いている漠然とした意識など

 今朝の産経新聞の朝刊に、NHKスペシャル『シリーズ・JAPANデビュー』の問題に絡む、また新たな記事が出ていた。
 この番組は、私もたまたま、遅い時間の再放送を見て「何ぼほど偏った描き方やろ。抗議来なんだんやろか(来なかったから再放送出来たのか?)」と思ったのだが、その後、大変な問題に発展していることを知って「またか……」と悲しくなった。
 NHKの番組には、幼い頃から随分と親しんで来た。宝塚に夢中であった頃には、カメラワークに問題こそあれ、長時間の劇場中継をCMなしで見られることが本当に嬉しかったし、歌舞伎も新劇も蜷川さんの沙翁劇も、全てNHKの劇場中継で初めて見た。内外のドラマ、人形劇、演芸、音楽、特集ほか、良いもの・思い出深いものが沢山ある。思い出と夢に支えられて生きているような私にとって、良い思い出を沢山貰った――それだけでも、十分に大きな意味を持つ存在である。
 無論、不満も多々ある。「プロジェクトX」で宝塚が取り上げられた際のことはここにも書いたし、あの花組の『ベルサイユのばら―アンドレとオスカル―』の舞台中継放映後の「言語同断の所業」など、今もって許すことが出来ない。
 地上デジタル放送への移行は、NHKとの契約を正式に解除する良い機会であると聞く。有料のCATVやBSと同じく「見ないから契約しない」という選択は個人の自由である。受信料の不払いではなく、正式に「解約」したり、最初から「契約しない」ことを選択する人は、ますます増加するものと思われる。
 しかし、テレビを見ること自体が極端に減ってしまった現在も、朝の時計代わりに見るのは「おはよう日本」であるし、大河ドラマにも随分と親しんだし、紅白歌合戦は私がその年に流行った歌謡曲を確認出来る、ほぼ唯一の番組である。
 民放の番組にもNHKの番組にも、良いもの・好きなものもあれば、問題のあるもの・好きになれないものもあり、不祥事はいずれの局も後を絶たないから、結局どちらも、私の中では「似たようなモン」であると言える。
 違いは、広告料を上乗せした商品を殆どそれと意識せずに購入しているか、受信料を意識して払っているか、だとすれば……。
 原価百円に満たない商品を三千円からの値段で平然と売りつけるような会社が提供する番組と、一律の受信料で制作・放映される番組と――そのどちらを見るかは、本当に、個人の選択の自由ということになるだろう。

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2009年10月 5日 (月)

最近流行の名前の読みについて思うこと・追記

 去る23日、産経新聞の投書欄に、最近流行の難読名を批判する歯科医氏の「難読名前は子供に迷惑では」と題する文が掲載された。
 それに対し、今日、同じ欄の「10代の声」に、12歳の中学生から、実体験を踏まえた「自分の名前に自信をもとう」という反論が寄せられた。
 先の歯科医氏は、昨今の“外国人名に漢字を当てたもの、こじつけめいたもの、「どう考えてもこうは読めないだろう」と首をかしげたくなる読ませ方のもの”等に疑問を呈し、過去にお名前の読みで苦労されたお母様の例(訓子(のりこ)さん)に少し触れておられた程度であったが、以前にもここに書いた、「宇宙(こすも)くん」や「月(るな)ちゃん」のような、漢字は平易に見えても、相手に余計なストレスを感じさせかねない「クイズめいた読み方を強いる」類の名前に対し、殊に疑問を覚える私は、正に的を射た意見であると感じた。
 以前の健康保険証では、家族全員の氏名が漢字と片仮名で併記されていたが、最近の個人単位の保険証には、漢字表記の氏名しか記載がないから、現場では恐らく連日、呼び出しやカルテ作成の際に困り抜いておられるのかも知れない。
 さて、今朝の反論の投稿者は「馥(かおる)」さんというお名前であったが、一目見てまず、命名者のセンスに唸らされた。香とも薫とも馨とも芳とも異なる香気がそこに感じられ、秀や彪よりもずっと素直に無理なく読めて、非常に心地良い。確かに、珍しいお名前ではあるようで、常用漢字表にも人名用漢字表にも見当たらないが、JIS第二水準漢字であるし、字も響きも意味あいも美しくて素敵である。職場で、及川馥さん・柚木馥さんといった著者名を入力したことがあるから、一般にちゃんと通用する名前であるのだろう。
 また、ぱっと見て「あ、馥郁の馥だ。カオルさんかな、カオリさんかな」と判断して、そのように尋ねて確認することも出来るし、漢字そのものの訓読みもそうであるし、私の感覚では決して「難読名」であるようには思われなかった。
 歯科医氏が、実例を挙げておられなかったのは、患者さんの個人情報に関わるからであろうが、その為に若干の誤解が生じ、それが後者の反論に繋がったのでは……とも感じられる。
 いずれにせよ、他者や自身の「名前」というものに対し、深く真摯に関心を寄せておられるお二人の投書は、どちらも全く正論であり、読んでいて非常に共感を覚えるものであった。

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2009年10月 3日 (土)

仲秋の名月と月見だんごに思うこと

 仲秋の名月の「仲秋」とは、どのような意味か――と、最初に教えて下さったのは、中学2年生の時の国語の先生である。
 十五夜を前にした国語の授業の冒頭で、黒板に大きく「孟」「仲」「季」の三字を書き、更にその下に「春」「夏」「秋」「冬」と書き、それぞれの組み合わせが旧暦の十二ヶ月を表わす(孟春なら一月、仲夏なら五月、季秋なら九月、というように)ことを解りやすく説明して下さった。(この先生には、魯迅の『故郷』絡みで、五行や十干十二支に関しても、きちんと教えて戴いた)
 さて、その仲秋の名月(旧暦八月の十五夜)であるが、この宵、お月さまに供える「月見だんご」には、地方によって様々な形のものがあると聞いている。
 私が幼い頃から慣れ親しんだ月見だんごは、細い紡錘形のお団子の中央部をこし餡でくるんだものである。本当は、芋名月に因んで里芋の形を模してある(この場合は、お団子が皮を剥いた里芋、餡が剥き残した皮)らしいのであるが、幼な心に勝手な解釈をしていた私は、ちょうど「雲の掛かった満月」のような風情であるように感じ、「餡が月で、お団子が雲やったら、色が逆なんやけどなぁ……」何て考えていた。
 しかし、今日、その月見だんごを買って帰ろうと、地元で最も古くから営業を続けている大手スーパーの和菓子売場に行ってみると、何と、関東風とでも言うか……餡をくるんだ真円のお団子を十数個、紙製の三宝の上に三角錐型に盛ったものしか置かれていない。諦めて、専門店の集まっている一角に回り、市内に本店のあるT和菓子店の支店に行くと、ここでは何故か、紡錘形のお団子をすっぽり丸ごとこし餡でくるんだ品しか置いていない……。
 結局、大和郡山に本店のあるK和菓子店で、やっとお目当ての形式の月見だんごに巡り会い、無事、購入することが出来たのであるが、内心、少々複雑な心境であった。
 大阪のベッドタウンであり、全国各地から転入された住人が多数を占めつつある土地柄ではあるから、他の地方の月見だんごが共に店頭に並んでいても余り不思議はない。しかし、関東風のお団子のみが販売されていたというのはどうにも解せないし、老舗の和菓子店が微妙に形の違うお団子しか扱っていなかったのも妙である。
 昔から見慣れた形式のものを、毎年変わらず目にすることで得られる、何かしら「ほっとした思い」をかけがえなく感じる私には、少しばかり衝撃的な今年の十五夜であった……。

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