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2009年2月28日 (土)

逃げゆく二月――聖バレンタインの月――に思うこと

 半月も前の話題で恐縮なのだが、去る十四日、中二になる知人の長男は、担任教諭の「チョコ禁止令」申し渡しにより、一個のチョコレートも貰えなかったそうである。「貰えない子への配慮」「商魂に煽られるなという教育的見地」など、理由づけは様々にあるのだろうが……しかし、思春期の子らの純粋で微笑ましい恋愛への憧れが、周囲の雰囲気でちょっぴり増幅される日であることさえも、一絡げに否定してしまうことには、無粋以前の大切な問題が含まれて来そうな気がする。
  節分の「巻きずし丸かぶり」など、商業ベースに乗って後から作られた新しい風習には、どうにも反発を覚えてしまう私であるが、ことバレンタイン・デーに関しては、何やかやと批判はあっても、もう現在の日本に於いては、何となく心弾む冬の行事の一つとして、結構自然に定着しているように思われる。活気溢れるお菓子売場の混雑ぶりも心強いし、様々に趣向を凝らしたチョコレートを冷やかして回るだけでも随分と楽しいものである。
「ちょっとした感謝の気持ち」を、行事にかこつけて贈り贈られることの出来る、お中元やお歳暮よりもずっと気軽な贈答の風習を大らかに楽しむ日――そんな日があるのは良いことだと思う。
 所で、私がこれまでにチョコレートを渡した相手はと言えば、塩沢さんや父や恩師など、年上(いや、年配)の相手ばかりである。一応、片思いの初恋相手にも渡したことは渡した(ナガサキヤのウィスキー・ボンボンであった)が、あれは義理チョコだと思われていただろう。そうした状況を、寂しいと思ったことはないが……。
 しかし――まぁ、一度で良いから、こんな雑記を書いてみたいものではある……。

  今年の二月十四日は、生涯忘れ難い特別な日となった。
  生まれて初めて、本当に恋した相手にチョコレートを渡すことが出来たのである。
  まるで少女のように、不安と期待とが綯い交ぜになってどきどきと乱れ打つ胸に、
  少し視線を落としたあの人の“有難う”の一言が、どれほど嬉しく響いたことか……。
  私にとって、きっと、最初で最後の本物の聖バレンタイン・デー……

 ん……? こらっ、ひつじ!! 人(創り親)の左肩の上でくふくふ笑うんじゃないっ!!(「だってぇ、ぼく、クレア☆の美味しい手作りチョコ貰って、幸せ一杯なんだも~ん☆」ひつじ談)――言いつけてやるっ!!

 何のかんの言いつつ、今年の二月も逃げて行く……。

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2009年2月27日 (金)

愛着か執着か――お財布一つまともに捨てられないお話

 自他共に認める「捨て下手」「整理下手」の私であるが、中でも、相応の歳月を愛用して来たお財布や定期入れなどの小物は、殊更に愛着の度合いが深くなってしまっている分、余計に困り物となる。
 補修も出来ないような壊れ方や、持っていて恥ずかしい位の汚れ方をしたものであっても、それを「使い納め」して、新しいものに取り換える踏ん切り自体、まずなかなかつかないし、いざ一大決心して新しいものに買い換えたとしても、今度はお役御免となった古い方を潔く処分することが出来ない。で、捨て難さの余り、何とか他の形で再利用出来ないものかと足掻きまくる……。結果、引き出しの中には使えなくなったお財布や定期入れの類がどんどん溜まって行ってしまうのである。(この間、ちょっと見てみたら、小学校の時に初めて買って貰った赤いお財布まで残っていたから……大概である)
 しかし――愛着ということも勿論あるのだが、お財布や定期入れの場合は、それに加えて「使い慣れ」「使い勝手」ということも、なかなか手放せない大きな理由の一つであるように思う。
 例えば、普段使いのお財布の場合、私は、紙幣も小銭もカード類も、一つにまとめておきたい方であるし、また、そうしておかないと――試しに財布と小銭入れとカードケースを分けて持ってみたら、予想通りに、いざと言う時に小銭が足りなかったり、銀行のカードが手元になかったり……何てことが、しょっ中起こる。少々「ぶーちゃん財布」になっても、一まとめに持ち歩ける方が、何かと便利で安心なのである。(因みに、私のお財布が「ぶーちゃん化」する最大の理由は、レシートの整理が下手なことと、会員カードの類が増え続けること、である)
 で、最近、ここ数年愛用して来た薄紫色のお財布が、付属金具の変形で鞄の内側を傷つけるようになって来ているので、そろそろ新しいものを探さないと……と、考え始めてはいるのだが、なかなか実行に移すことが出来ない。装飾の金具が変形したこと以外は何も問題がないので、尚更である。よそ行き用のお財布であれば、ここまで悩むこともなく、すっ、と決めて使えるようになるのに……。
 ふっと思う。「春財布(張る財布)」「秋財布(空き財布)」何て言葉があるのも、もしかしたら、こういう、なかなか「新しいものに変える踏ん切りのつかない輩に、そのきっかけを掴ませてくれる為の先人の知恵」なのではないかなぁ……と。

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2009年2月22日 (日)

絵空事の世界に現実味の裏打ちを切望したこと

 先週のとある平日の夜、ウイルス検索に時間が掛かってパソコンが触れなくなり、待っている間に民放の番組をぼーっと見ていた所、意外な所でひつじのアルバイトを見つけた。実写のドラマの所々に、小さいアニメ(CG?)のひつじ(但し、サフォーク。変装してまでバイトする奴…!?)が突然おじゃま虫して、じたばたしたり嫌々したり泣いたり……なかなか可愛い。少し前に、知人から「OPや前回のあらすじのひつじアニメが可愛いドラマがある」と教えて貰ったのだが、どうやらそれであったらしい。
 で、そのドラマというのが、何やら風変わりな設定の学園物で……何故か、学園生活を送る生徒一人ずつに執事が付くという、相当に現実離れしたお嬢様学校が舞台で、校舎などまるで領主館か宮殿である。
 その回は、年齢にばらつきのある生徒たちが集うサロンのような部屋と、主人公の女の子の寮室と、やたら薔薇の多い校庭などが中心の展開であったので、具体的な授業の内容や様子、教師陣の顔ぶれ等までは判らなかったのだが、お話自体は、まぁ、少女漫画っぽいファンタジーの世界、という感じであるように――原作があるならば、恐らくは少女漫画であろう――思われた。
 が、しかし……ここで妙に違和感を覚えてしまったのが、生徒らの制服のスカートが極端に短か過ぎることであった。現代の普通の中学高校が舞台で、一部生徒のスカートが短い程度であれば、まだ最近の流行かと柔軟に理解も受容も出来たと思う。だが、伝統ある典型的私立女子校どころか、途方もない名門私立全寮制女子校らしき設定で、レディ育成が至上目的だの、卒業生は殆どが家の為に政略結婚するだの言いながら、肝心の生徒らの制服が全て、太もも丸出しに近い……というのが、何とも嘘っぽく思われてならず、瞬時に現実に引き戻されてしまった。しかも、その太もも丸出しの制服で、社交ダンスの稽古をする場面まであって……もう、優雅だの高貴だの気品だの言っていられる段階ではない感じであった。
 高額の授業料を納めて愛娘に最高級の淑女教育を受けさせようとする、旧家や富豪の当主でもあろうかと想像されるその保護者らが、果たしてあんな制服を認めるだろうか。第一、冷えは則ち将来的に不妊の遠因=継承者問題にも直結しかねない。
 つくづく、絵空事の世界は、もっと徹底して絵空事らしく、根も葉もある嘘を綿密に重ねて構築して欲しいなぁ……と、思った次第であった。

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2009年2月15日 (日)

「献血」と「血液検査」について思うこと

 最近、遅番出勤の朝など、この寒空の下、駅近くの広場などに献血車を停めて、行き交う人々に協力を呼び掛けているボランティアの方々の姿を目にすることが多くなった。聞けば、輸血用の血液の確保が結構難しい状況であるらしい……。
 随分以前のことだが、伯母もライオンズクラブ婦人部の奉仕活動で、何度も駅頭に立って献血の呼び掛けを行っていた。「献血はしたいけれど、恐いから……」と渋る体育会系の男の子などを、誠意を持って懸命に説得して協力して貰うのが随分と難しい……という話など、よく聞いたものである。
 私も、ある時期までは適宜協力して来たし、今も、出来ることであれば協力を続けたいのではあるが……如何せん、例の狂牛病絡みの事由によって、残念ながら献血することが出来ない。(たまたま指定されている期間に、たった一晩だけロンドンに泊まっただけのことなのであるが……まぁ、その晩の夕食は紛れもなくローストビーフであったし、仕方ないことかも知れない……)
 ここでまた、素人なりに思うことがある。広報活動やボランティアの協力も大切ではあるけれども、少し視点を変えて、「献血ルームや献血車を、より身近で便利なものとして捉えて貰える方向」に持って行くことで、献血人口を更に増やす……ということは出来ないだろうか。
 例えば、「献血ルームや献血車に於いて、血液検査のみをワンコイン程度で受けられるサービス」はどうだろう。採血のプロが常時詰めておられるのだし、決して難しいことではないと思う。検査結果は基本的に電子メールで送付すれば送料も節約出来るし、メール受信出来ない人はワンコイン+送料で郵送可ということにすれば良い。
 医療機関で定期的に血液検査を受けようとすれば、一回につき何千円かの費用が掛かるし、その為だけの通院に割く時間も相当なものになる。しかし、通勤途中の駅前などで気軽に採血して貰えて、しかも費用も格安――となれば、献血ルームや献血車に対する関心の度合いは随分と上昇し、献血に対する興味や親しみもより増し、国民の成人病対策にもすぐさま役立ち、血液検査目的だけで献血しようとする人も減少するのではないだろうか。その為に、成人病予防の為の予算の一部を、早急に献血サービス内容の拡充に回す位のことは、決して出来ない相談ではない筈である。
 あくまで素人の考えではあるけれども、絶対に実現不可能なものではないと思うのだが、如何だろうか。

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2009年2月12日 (木)

素人なりに音楽と歌詞の関係について思うことなど・後

 そんな中、先月7日の産経新聞の朝刊で、非常に興味深い文を読んだ。札幌国際大学の大月隆寛教授が書かれた「意味を考えない人々」と題するコラム記事である。
 何でも、ある学生(地味で真面目な文化系の典型で、人並み以上に音楽好きな子)から、「センセイのゼミ出るようになってから、歌詞の意味を気にして音楽を聴くようになっちゃいました」と言われた――のだという。更に続く「今や、日本語の歌詞でさえも意味を解読してゆくような聴き方をせず、音楽の一部として、まるで洋楽の歌詞のように耳の表層を流れてゆくだけ、といった若い衆があたりまえにいるらしい」――という一節には、思わず絶句する程の驚きを覚えてしまった。
 最早、日本語の歌であっても、歌詞の意味は必要とされない時代になって来ている……とでも言うことなのだろうか。
 しかし、私には不思議に思われてならない。一体どうすれば、意味を意識せずに母国語である日本語の歌を「音楽」として流し聞く、というような器用な芸当が出来るのだろう。
 もしかして、その学生が言う「音楽」とは、私の想定する「無意識に音楽として聞き流せるような、歌詞が旋律に飲み込まれて融け消えてしまったような」洋邦楽のことのみを指していたのではないのだろうか……。そうであって欲しいと、願わずにいられない。
 ふと、高校時代の音楽の授業で歌ったハワイ語の曲を思い出した。歌詞の意味は解らないのに、歌うと何だか心がほんわりと優しく浮き立つような、そんな心地よい気分を感じたことを覚えている。
 思えば、MIQさんの歌われる洋楽を聞いていると――例え、私の語学力では到底、聞きながら原語の歌詞の意味を同時翻訳して味わうような芸当は出来なくとも――その歌の持つ意味、力、雰囲気、といったものが、見事に伝わって来るような気がする。例えば、旋律だけだとごく明るく楽しい曲に聞こえても、それにMIQさんの歌唱が加わると、耐え切れない位の切なさや狂おしさまでが、ひしひしと感じ取れるようになったり……。
 洋楽であれ邦楽であれ、歌詞の意味まで気にせず「音楽」として楽しめる曲に相応の需要がある、ということは確からしい。しかし、歌詞の意味が完璧には解らない聞き手にも、歌の“心”は十二分に伝わる……そんな歌い方の出来る歌い手があり、そんな歌われ方の出来る曲もあることが、まず大切なのではないだろうか。そんな気がする……。

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2009年2月11日 (水)

素人なりに音楽と歌詞の関係について思うことなど・前

 紅白に絡む文を書いていて、ふっと思い出したことがある。
 多分、一昨年か一昨々年、とある白組出場者の歌を、編物をしながらぼ~っと聞いていて、妙な違和感を覚えたことがあった。一言で言えば、それは「何語で歌われているのかさっぱり判らない」歌だったのである。
 慌てて画面に目を向けると、歌っていたのは二人組の男性であったが、しかし、二人の口の動きを見ながら聞いても、矢張り何語なのか判らない。次第に何やら空恐ろしいような気分になって来てしまい、とうとう、一緒に見ていた妹に「これ、何語の歌?」と聞いたら、露骨に呆れ果てられた。「日本語やんか!! ちゃんと字幕出たるやん!」――そうして、更に恐ろしいことに、字幕を見ながら聞いてみてもなお、私の耳には「とても日本語には聞こえなかった」のであった……。
 日本語含有率の極めて低い歌であっても、耳慣れない古代語や外国語の歌であっても、歌詞の意味までは理解出来ないなりに、その持つ独特の雰囲気や魅力を楽しむことは出来る――と、ずっと思っていたのではあるが……あの時のぞっとするような衝撃は、今だに忘れられない。
 これは極端な例だったとしても、最近の若い歌手(特に女性歌手)の皆さんの歌は、誰がどんな歌を歌っておられても、私の耳では殆ど区別することが出来ないのは本当である。それぞれに、声も歌い方も個性も雰囲気も歌の種類も、それぞれに全く異なっている筈であるのに……。
 随分と以前になるが、高沢サンがロックにはまったと聞いた時、私は既に英語が苦手科目になっていたこともあって、洋楽というものにさっぱり好感を抱けず、思わず「英語の歌て、聞いててすっと意味解って、良えなぁ……と思て、そこから好きになるんか?」と聞いてみた所、「あんた、ロックの歌詞の意味なんか考えながら聞いてたら、えげつのうて胸悪くなるか、自殺したくなるかやワ。意味なんか考えんと、音楽として聞き流せるからヨイんじゃない!」という答えが返って来て、目から鱗が落ちたことがあった。
 極端な感じ方なのかも知れないが、もしかしたら、最近は、そんな風に無意識に「音楽」として聞き流せるような歌が主流になって来ていて、それが歌い手ごとの聞き分けにまで影響して来ているのではないだろうか。言わば、歌詞が旋律に飲み込まれて融け消えてしまったような、そんな曲が多く好まれる時代になって来ているのかも知れない。

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