再び、明るい話題とは、言えないかも知れないが……
26日付産経新聞朝刊の連載コラムで、阿久悠さんが『ドラえもん』声優陣の世代交替による若返りについて触れ、それはそれで良いが「それが進むと、やがて、キャラクターの年齢に近いことが条件とされてくるかもしれない」――と書いておられた。ゲームに音声が付き始めた頃から、嫌に加速度をつけて進み始めた声優界の世代交替に対して、ぼんやりと抱いていた不安感の、その一因を言い当てて貰えたような気がする。
更に「日本の文化の薄っぺらさは、たとえば、十八歳が十八歳の気持ちを歌にして、十八歳が歌い、十八歳が聴いて共感するということである」「そういう社会で、たとえば七十歳のたてかべ和也氏が小学生のジャイアンをやって正体がバレることなく、共感を得ていたのは、数少ない安心材料だったのである」とも書いておられる。全く同感である。
演技者が「演じる」ことから生まれて来る幻惑の力は、一種の魔法である。声のみで120%全てを表現する声優さんの場合、その魔法の力は更に飛躍的に増大する。十台の少年の役を六十台の女性が演じても何の違和感もないばかりか、更なる魅力に彩られた素敵なキャラクターが誕生して来る。そこにファンは魅了される。13歳でトリトンを演じた塩屋翼さんや、14歳で飛雄馬を演じた古谷徹さんなどはむしろ例外で、実年齢を感じさせずに年齢差や性差のあるキャラクターを演じることは、声優さんにとってはごく普通のことである。幾ら名女優である森光子さんでも、幼児期や少女期の林芙美子まで演じるのは難しいだろうが、声優さんたちは常に、それを当たり前にやってのけるのである。
そうした特色や約束事を素直に受け入れて楽しむことの出来る、一種の余裕のようなものを、受け手の誰もが暗黙のうちに持った上で開花したのが、かつての声優文化であったような気がする。加えて、声というものは滅多に年を取らない。それに演技の力が加わり、独特の魅力に溢れた不思議な世界が醸し出される――その世界に酔いしれる楽しみにもまた、何にも代え難い極めて特別なものがあるのである。
実写作品であれば、三歳の大五郎役に三歳の小林翼くんを配することには確かに意味があるだろうが、声演にまでも、何よりまず「等身大」であることを優先する傾向が出て来るとしたら……それは、リアリズムの追求と言うだけでは済まない問題を孕んで来そうな気がしてならない。
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