「重ね着」について思うこと・下
それだけに、ここ数年、紺のブレザーの裾から、茶色や青色や赤色(紺や黒ではなく)のセーターの裾を堂々と10cm近くもはみ出させて着ている女子中高生を見ると、同色のセーターが僅かにはみ出ただけで、あれだけ言われた人間であるから、思わず「この子、学校で苛められへんのやろか?」と、密かに心配したりもした。こうした辺りにも、昨今の重ね着に、つい疑問を抱いてしまう素地があるように思う。
もう一つ、思い出されることがある。
幼い頃、セーターやブラウスを滅茶苦茶な順序に着重ねたり、それこそズボンの上から更にスカートを履いたり――と、ちぐはぐな統一性のない恰好をすると、例え調子に乗ってふざけてしたことであっても、母や伯母や祖母などから、「ルンペンさんみたいな恰好しなっ!!」「ヒッピみたいなことせんときっ!!」「そんなん、まるで宿無っさんやないかっ!!」と、それはひどく叱られたものであった。
母らは、今で言うホームレスの人らを「ルンペンさん」「宿無っさん」のように、どこか温かみのある呼称で呼んでいた。そうした人たちの、暖をとる必要に迫られて、選択の余地なくそうした衣服を着なければならない切羽詰まった状況を、ふざけて真似るような浅慮なことはするな、という戒めであったのだと、今思えば妙に納得出来るものがある。
少なくとも、制服の上着からほんの少しはみ出た重ね着のセーターの裾を「恰好悪ぅ~」と底意地悪く指摘し非難するような類のものではなく、そこには、どこか、曽野綾子さんが一昨年の五月に産経新聞連載の「透明な歳月の光」の中で書いておられた、(破れたジーンズなど)「他人の貧しさをファッションにして楽しむ神経」に、どうしてもついていけない――という考え方に通じるものがあるような気もする。
いずれにせよ、下に着たものが上に着たもので隠れ切らない「(無意識に)はみ出た」或いは「(故意に)はみ出させた」状態に対し、何かしら不安定でちぐはぐで落ち着かない気分を覚えてしまう背景には、こうした昔からの意識や経験が多分に影響しているのかも知れない。
加えて、現在の己が体型から……「重ね着する」→「着ぶくれる」→「余計に肥えて見えそう」――といった、切実な問題をも孕んで来そうな気がすることもある。
そんなこんなで、矢張りどうしても「最近流行りの重ね着」には、妙な抵抗を覚えてしまい、さっぱり食指の動かない私である……。






















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